FINAL FANTASY XIII Episode Zero -Promise- 原案 鳥山 求/渡辺 大祐  著者 映島 巡 第一話「ENCOUNTER(遭遇)」 CHAPTER 01  囲まれたと気づいたが、さしたる緊張も狼狽もなかった。探す手間が省けた、とだけ思った。 通報どおり、とライトニングは軍刀を構えてつぶやく。ブラッドバスが複数。魚類の鰭と両生類の四肢を持ち、水際に群生する魔物。臨海都市ボーダム郊外には、この手の水棲魔物がしばしば出没する。気候温暖で、水と緑豊かなリゾート地は、人間ばかりか魔物にとっても棲みやすいものらしい。 赤みがかった灰色の塊が視認できる範囲内に四つ。背後に二体の気配がある。うち一体が、もぞりと動く。跳躍の予備動作だった。 視界の右半分を刀身で薙ぎ払う。手応えはあった。続けて左へ。閃光の名に似つかわしい動きで刃がブラッドバスの急所を抉る。これで二体。 背後に跳ぶ気配を感じた。この速度なら問題はない。ライトニングは小さく息を吸い込んだ。振り向きざまにこいつを斬り捨てて、さらに背後のもう一体を……。 そのときだった。咄嗟に飛び退る。銃声を聞いた。次の瞬間、ブラッドバスが視界で弾け飛ぶ。続けてもう一体が緑色の体液をまき散らした。「助太刀するよ!」 エアバイクのやかましい音とともに、女の声が降ってくる。助太刀ではなく邪魔立てだろう、と苦々しい思いで武器を下ろした。ブラッドバスの注意はすでにライトニングから逸れている。 声の主があまり芳しくない素性の女であろうことは、仰ぎ見て確認せずともわかっていた。改造エアバイクの音である。安全性第一に設計された市販のものではなく、また静粛性を重視した軍用快速機とも異なる、あの音。あんなものを乗り回している女は真っ当な民間人でも、ましてや軍人でもない。 実際のところは、銃を片手にエアバイクを操縦していたのは女でなく、青い髪の男だった。まだ若い。羽根飾りだの玉飾りだの、遠目に見てもわかるほど派手な出で立ちである。その後部で黒髪の女が大型銃を構えている。 地上すれすれまでエアバイクが急降下してくる。女が立て続けに発砲した。残る二体のブラッドバスが相次いで跳ね飛ばされ、おとなしくなった。射撃の腕は悪くない。無駄弾をもう半分くらいに減らせれば、の話だが。 ライトニングの目の前に回り込むようにして、エアバイクが急制動をかけた。これもまた腕に覚えのある人間のやり方だ。「兵隊さん、危なかったね」 黒髪の女が銃を担ぎ上げ、にこりと笑う。やたらと大きく開いたネックラインから、蝶を象ったタトゥが覗く。肩胛骨のやや上である。青い髪の男が装飾過多なら、この女は露出過多だ。 いずれも銃器を扱う人間の服装ではない。身体に密着しているならまだしも、ぶら下げた飾りは銃撃の際、邪魔になる。また、大型銃は銃身が加熱しやすく、肌を露出していたのでは火傷を負いかねない。素人だな、と判定した上で、ライトニングは尋ねた。「おまえたちは?」 「ノラさ」 こちらが高圧的に出ても、女は全く臆する様子がない。面白がっているかのように、琥珀色の瞳がくるくると動く。「ボーダムの兵隊さんなら、いっぺんくらい聞いたことあるんじゃないの?」 たいした自信だ。その自信がいったいどこから来るのか、むしろそこに興味を覚えたが、わざわざ口に出して訊くほど暇ではない。「悪いが、一度もないな」 短く言い捨て、ライトニングは踵を返す。二人の話し声がしつこく耳につく。「……だってさ」「おっかしいなぁ。俺ら、もうちょっと知名度高いと思ってたけど」 彼らの声を振り払うように歩みを早める。不愉快だった。任務の邪魔をされたことも、あの二人組がそれを人助けだと勘違いしているらしいことも。何より、その手柄顔が気に食わなくて子供じみた嘘をついた自分自身に嫌気が差していた。 そう、ひとつだけ嘘をついた。ノラという名前に聞き覚えがない、というのは嘘だ。本当は知っている。 海辺にある小さな店を根城にしている連中のことは小耳に挟んでいた。その店は、リゾート地によくある観光客相手のカフェだが、実際には地元の常連客のほうが多いという。いずれにしても、ハイスクールの女子生徒が出入りするには好ましくない店、だ。 『俺たちは野良猫みたいなもんだから、って。それがチーム名の由来だって言ってたよ』 さらに不愉快なことを思い出しそうになって、ライトニングは大急ぎで無線機を引っ張り出した。余計なことを考えるな、と自分に言い聞かせる。魔物退治が完了したと曹長に連絡を入れること。それが今の最優先事項だった。 合流地点には、すでに数人の兵士たちが戻ってきていた。ブラッドバスの群れが通報地点からさほど遠くへ移動していなかったおかげだった。足の速い魔物の駆除となると、こうはいかない。 魔物は人の気配を嫌うために、繁華街や住宅密集地に姿を見せることはないが、郊外ともなれば話は別である。広い敷地と閑静な住環境を求めて郊外に家を構える住民たちにとって、魔物の出没は頭の痛い問題だった。 小物一匹であれば素人でも追い払うくらいはできるが、それらの多くは群れで行動している。単体で棲息しているのは概ね手強い大物である。結局のところ、「見かけたら刺激せずに軍へ通報」というのが最も賢明な対処法となる。そして、ライトニングの所属するボーダム治安連隊が駆除に乗り出すのが常だった。 お疲れ、と迎えてくれる同僚たちの声に手を上げて応え、ライトニングは目で上官の姿を捜す。いや、捜すまでもない。アモダ曹長の声はどこにいてもよく通る。豪快という言葉がぴったりの笑い声のほうへと、足を向けたときだった。  ライトニングは思わず眉をひそめた。アモダ曹長が得体の知れない連中と話し込んでいる。しかも、その傍らには連中の所有であろう改造エアバイクが数機。あの青い髪の男が操縦していた機体によく似ている。 やけに馴れ馴れしい態度でアモダ曹長と話している男は何者だろう? 堂々たる体躯の持ち主だが、どうにも暑苦しい。服装のせいなのか、大仰な動作のせいなのか。ただ、あの男がリーダー格らしいことは、なんとなく見て取れた。だとしたら……。 不意に男と目が合った。ライトニングはまっすぐに視線を返した。無礼は承知の上だ。男が微かに訝しげな表情を浮かべる。それに気づいたのだろう、アモダ曹長が振り返った。「おう、隊長殿。お疲れさん」 また始まった、とライトニングは小さく肩をすくめる。アモダ曹長はこの手の軽口を好む。「隊長? 何の冗談です、曹長」 わざと「曹長」の部分を強調して返す。配属された当初と違って、今では難なく受け流せる。もちろん、必要に応じて切り返すこともある。「うちの斬り込み隊長は、おまえさんだろ?」 この程度なら切り返すまでもない。呆れた、と言わんばかりのため息とともにライトニングはアモダ曹長の言葉を受け流すことにした。「ところで。何者です?」 目を眇めて傍らの男を見遣る。遠目に見ても、間近に見ても、印象は変わらない。最悪ということだ。 「ノラですよ、軍曹」 横合いから口を挟んできたのは、入隊したての若い兵士だった。「聞いたことないですか?」 またノラか、と肩が落ちそうになる。せっかく頭から追い払ったというのに、あちらからお出ましになるとは。「街の若い衆が組んだ自警団だそうでな」 ライトニングの沈黙を情報不足によるものと勘違いしたらしく、アモダ曹長が解説を加えてくる「リーダーのスノウ君だ」 スノウ。やはりという確信と、よりにもよってこいつがという失望とが交錯した。「どーも」 申し訳程度の挨拶がますます腹立たしい。もう少しましな態度が取れないものかと思う。「これがうちの斬り込み隊長殿だ。若いが凄腕でな」 その証拠に、とアモダ曹長がライトニングの軍刀の柄を指先で軽く叩いた。「こいつは、最近になって制式採用された軍刀でな。ブレイズエッジ……って言っても、おまえらにはわからんだろうが、聖府軍の者なら一目でこれが何を意味するかわかる」「曹長、その話は……」 その先を予想したライトニングはあわてて止めに入ったが、アモダ曹長はそれをあからさまに無視して続けた。 「優秀な兵士にのみ先行支給。要するに、今、これを持ってるやつは文句なしの凄腕ってわけだ。たいしたもんだろう?」 いくらなんでも褒めすぎだ。いい加減、止めに入らねばと思ったが、アモダ曹長の弁舌にはその隙が全くない。「しかもだ、隊長殿のブレイズエッジは特注品でな、銘が……ええと、なんだったかな。白き閃光……称えよ我が名、だったか?」 唱えよ我が名、とライトニングは胸の内で訂正をした。口に出してわざわざ言うには、あまりにも気恥ずかしい。「もうその辺で勘弁してください」 たとえ冗談交じりでもからかい半分でも、上官に評価されるのはうれしい。だが、何事にも限度というものがある。何よりも、目の前でスノウという男が「へえ」だの「そいつはすげえ」だのと叫んでは、無遠慮な視線を自分に向けてくるという状況が耐え難かった。「わかったわかった」 アモダ曹長は肩をすくめてみせた後、大声で笑った。「まあ、なんだ。そんなわけで、今回はうちの軍曹殿が早々に仕留めたからな。おまえらも獲物がなくて、がっかりだったろう?」「いやいや。通報される魔物だけが魔物じゃねぇんで」「そうか?」 「ちょいと燻り出してやりゃあ、ぞろぞろ……ってね」「おい、燻り出すはいいが、物騒なことはしてくれるなよ」 そりゃもう、と大げさに両手を挙げてみせる様子が気に障る。何が自警団だ、笑わせるんじゃない、素人の寄せ集めが銃器を手に正義の味方を気取ってるだけだろうが……。 そう指摘してやりたいのは山々だったが、それをしたところで、何も変わらないだろう。非難や批判は現状が改善されてこそ意味がある。それが期待できないのなら、言うだけ無駄というものだ。「全くおまえらときたら。元気が有り余っとるんだな。何なら軍に来るか?」「俺ら、規則とか制服とか、そういうの性に合わないんで」 なぜ、この男はいちいち人の神経を逆撫でするような言い方ばかりするのか。怒りを通り越して呆れてしまう。しかし、アモダ曹長は無礼千万な台詞すら笑い飛ばしていた。口では「なんだと、この野郎」と言いながら、その無骨な手はスノウの背を叩いているのだった。それも親しげに。「じゃあ、魔物も片付いたんで、俺らはここで」 スノウの言葉を潮に、屯していた連中がエアバイクに乗り込んだ。「おまえら、調子に乗って目ぇつけられるなよ」 彼らに声をかけたのは、さっきの若い兵士だった。歳が近いこともあって、気安いらしい。「うちと違って、PSICOMの連中は厳しいからな」  PSICOM。公安情報司令部。軍内部の特務機関で、いわゆるエリート軍人で構成されている。治安連隊が民間人と接する機会の多さゆえに、ある種の「緩さ」を備えているのに対し、軍中枢部に近い彼らにはそれがない。確かにPSICOMなら、ノラなどというふざけた集団の存在を許しはしないだろう。 しかし、所詮、民間人に過ぎない連中には、与り知らぬことである。ノラのメンバーの誰一人として、若い兵士の「親切な警告」をまともに受け取ろうとはしなかった。「平気っすよ。ノラは軍隊より強いんで」 リーダーがリーダーなら、メンバーもメンバーだ。だが、若い兵士のほうは気を悪くしたふうもなく、「生意気言いやがって」と笑っている。 こいつらは、良識どころか人として当たり前の気遣いすらできない連中なのだと思った。だから、このまま無視して忘れてしまうのが賢明だとも思った。なのに。「待て」 気がついたら、後を追っていた。呼び止めて、どうしても一言、言ってやらずにいられなかった。「スノウ、だったな」「はいはい?」 エアバイクを発進させようとしていたスノウが振り返った。「妹につきまとっているのは、おまえか」 「妹?」「セラ·ファロン」 妹の名を口にした途端、「ああ!」とスノウが叫んだ。またも大げさな動作でエアバイクから飛び降り、ライトニングのほうへと歩み寄ってくる。「じゃあ、あんたがセラの姉さん? 顔は似てるけど、ほんと雰囲気違うな」 うれしそうな表情と物言いに、ライトニングはかえって困惑した。まるで、おもちゃかお菓子を見つけた子供のようだ。「姉さんは軍人だってセラに聞いたから、さっき会ったとき、アレって思ったけど。やっぱり姉さんだったか」 しかし、気安くセラの名を連呼されると先刻の苛立ちが戻ってきた。いっそ怒鳴りつけてやろうかと思ったそのとき、目の前に右手が差し出された。「初めまして! スノウ·ヴィリアースです。セラには世話になってます」 分厚くて、大きな手だった。革手袋をはめたままだから、余計にそう見えるのだろうか。いや、手袋のままで握手を求めるなど、やはりこいつは礼儀を知らない。「セラに手を出すな」 差し出された手は無視した。もとより友好的な関係を築く気などない。「なんで?」 きょとんとした後、革手袋の指先とライトニングの顔とをスノウの視線が行き来する。何を言われたのか、すぐには理解できなかったのだろう。「手を出すなと言ってるんだ」 ここに至って、ようやくスノウが手を引っ込めた。拒絶されたことを悟ったらしい。それでも諦めきれないのか、ためらいがちにスノウは言った。「出したら?」 答えるまでもない。言うべきことは言った。そのまま背を向けようとしたときだった。ライトニングのつま先に何かがぶつかった。 椰子の実だ。正確にはボーダム椰子と呼ばれる亜種だが、この辺りで「椰子」といえばこれを指す。生育が早く、また葉を大きく広げるために海辺の遊歩道に好んで植えられる品種である。だが、いわゆる椰子と違って、その実は食用に適さない。 なりばかりデカくて煮ても焼いても食えない……まるでこいつのようだ、と思う。「なあ。もし、手を出したら?」 足許の実を力任せに踏みつける。「手が出るな」 ゆっくりと指を組み合わせて、関節を鳴らす。こういうやり方で妹につきまとう男を追い払うのは本意ではないが、仕方がない。 と、不意に椰子の実を踏む足が沈んだ。スノウが実を蹴り上げたのだ。小振りな実は弧を描いて飛び、スノウの手に収まった。ボール蹴りの得意なガキのやりそうなことだ。 「悪いけど、ぶん殴られても、きかねぇや」 たかが女の拳など効かない、と言いたいのか、ライトニングの言葉は聞かないと言いたいのか。おそらく両方だろう。「俺、頑丈なんで」 そう言って笑う顔に苛ついた。無言のまま、背を向けて歩き出す。気に食わない。ガキを集めて大将を気取って、弱いの相手に意気がって……最低な男だ。 セラはなぜ、あんな男に興味を覚えたのか。そう、興味だ。好意ではない、断じて。「ファロン軍曹、お知り合いですか?」 話の内容までは聞こえていないはずだが、何やら険悪な様子でやり合っているのが見えたのだろう。若い兵士が気遣わしげに尋ねてくる。「いや。別に」 知り合いなどではないし、今後も関わり合いになるつもりはない。自分自身だけでなく、妹のセラにもそうさせたいと思う。「戻るぞ」 ライトニングは髪をかき上げ、歩き出した。 CHAPTER 02  潮風が頬に心地よかった。遊歩道をぶらぶらと歩きながら、セラは大きく伸びをする。快晴だ 遊歩道付近は静かだった。今の季節、観光客は皆、海水浴ができる浜辺のほうへと集まる。ノラのカフェはきっと朝から大繁盛だろう。それでなくても、今日はレブロが店にいる日だ。地元の常連客たちが彼女の料理目当てに足を運ぶ。 スノウが待ち合わせに遅れているのも、そのせいに違いなかった。「じゃあ、あとは任せた」と言って店を出ようとするたびに、常連客の誰かにつかまって話し込まれてしまう。その様子が目に浮かんで、セラはくすりと笑う。 おーい、と呼ぶ声にセラは振り返った。スノウではない。ノラのメンバー、ガドーだった。一人でエアバイクに乗っているということは、仕事場に戻るのだろう。或いは、レブロに頼まれて食材の補充に行くとか。「悪い、遅れる……でしょ?」 エアバイクが傍らに停まるなり、セラはそう言ってガドーを見上げた。身長はスノウより若干低いものの、筋肉質の体型ゆえに見る人の目には「巨漢」と映る。だから、「大きくて怖そう」というのがセラのガドーに対する第一印象だった。もちろん、今は違う。「常連さんにつかまっちゃった?」「ご名答。ありゃあ、しばらくかかるな」 よほど話の長い客なのだろう。スノウが頼んだのか、レブロが察してくれたのかは定かではないが、こうしてガドーがメッセンジャーを務めてくれているということは。「うん。わかった。ありがとう」「いや、どうせ通り道だしな」 じゃあ、とガドーは再びエアバイクを発進させた。セラは手を振ってその後ろ姿を見送る。 静けさが戻ると、セラはまた歩き出した。遊歩道の少し先に水鳥が集まる場所がある。スノウが来るまでそこで待っていようと思った。水鳥たちが波間に遊ぶ姿は眺めて飽きることがない。何か餌になるものを持ってきてやればよかったな、とも思う。 この街が好き、とセラはつぶやいた。水鳥たちの遊ぶ海も、この空の色も、優しく葉を揺らす木々も、美しく整備された遊歩道も。 けれども、セラはハイスクールの最終学年で、すでに首都エデンの大学への進学が決まっていた。自分自身が望んだ進路なのに、この街を離れる日を思うと気が沈む。スノウは「エデンなんて目と鼻の先だろ? その気になればいつだって会える」と笑って言ったけれども。 二度と会えなくなるわけじゃない。セラはそう自分に言い聞かせた。二度と会えなくなる、それがどういうことか、知らないセラではなかった。 最初は父だった。人の死が理解できる年齢ではなかったはずなのに、二度と父には会えないことを幼いセラは感じ取っていた。母が病死したときは、さらに強く感じた。自分の目の前から大切な人が消えるという痛みを。 スノウも、スノウと同じ施設で育ったガドーやレブロ、ユージュも、同じ痛みを知っている。だからだろう、彼らは人を見る目が優しい。自覚はないかもしれないけれども。 私は幸せなんだ、と気づいた。幸せだから、ほんの少しの距離が寂しい。毎日のように会って、他愛のないおしゃべりをして、優しい人々に囲まれて。そんな時間がとても楽しいから、それが少し減るだけでつらい。「この贅沢者め。だめだよ、欲張りすぎちゃ」 拳で軽く自分の頭を叩く。エデンまでの距離は決して「目と鼻の先」ではないけれども、その気になれば会えるというのはスノウの言うとおりだった。 だから、気に病むのはやめよう。ほんのささいな不安のために、今の楽しい時間を台無しにしたくない。 うん、と強くうなずいたときだった。遊歩道を猛烈な勢いで走ってくる人影がある。スノウだ。予想していたよりも早い。きっと必死で常連客を振り切って出てきたのだろう。「こっちこっち!」 セラは飛び跳ねるようにして大きく手を振った。「お姉ちゃんに会ったの!?」 セラは思わず叫んだ。遊歩道を全力疾走してきたスノウはしばらく荒い息をついていたが、それがおさまると真っ先に口にしたのが「ライトニングに会った」という一言だったのだ。「昨日、たまたま」  道理で、とセラは独りごちる。「俺のこと、何か言ってた?」「何も。すんごい機嫌悪かったから、変だなって思ってたんだけど」 機嫌が悪いといっても、表情や口調はいつものままだった。無論、物に当たり散らすといった子供っぽいこともしない。気分や感情を露わにすることを潔しとしない姉である。 ただ、セラには姉の機嫌の良し悪しはなんとなくわかる。身にまとう気配のようなものが、微かだが変わるのだ。喩えるなら、静電気のようなもの。目には見えないけれども、触れれば放電する。 スノウならば、迂闊に手を伸ばして痛い目に遭うのだろうな、とセラは内心で苦笑する。姉とは対照的に、スノウは気分や感情に忠実だった。考えていることが無防備なほど顔や態度に出るし、言葉にも出る。 気持ちと言動とが最短距離でつながっているタイプなのだ。だからこそ嘘や誤魔化しがなくて信用できるとセラなどは思うのだけれども、姉は全く別の評価を下すに違いない。およそ共通点というものに欠ける二人である。水と油というのはスノウと姉を指して言うのだろう。「まずいなあ」 スノウが頭を掻く。「どうする?」 何のことかと言いかけたが、すぐその意味に思い当たった。「大丈夫。おいでよ」 来週は姉の誕生日だった。無理を言って休暇を取ってもらったのも、三人で誕生日を祝おうと思ったからだった。「つき合ってること、ちゃんと話そ」「コソコソつき合うのも嫌だもんな」 本当は、バースデーパーティの席でスノウを紹介するつもりだった。紹介するためだけに休暇を取ってもらうのは気が引けるし、かといって忙しい姉である。まともに話もできないまま、時間切れという事態だけは避けたかった。「話せばわかってくれるよ。お姉ちゃん、ほんとは優しいから」 姉は自分にも他人にも厳しい人だった。また、一度決めたことは最後まで貫き通す強さゆえに、どうしても「頑固なタイプ」という先入観を相手に与えてしまう。 でも、そうやって姉はたった一人の家族である自分を守り続けてくれたのだ、とセラは思う。まだ自分も親に甘えていたい年頃だったのに、子供であることを捨て、ひたすら強くあろうとしてくれた。父の葬儀のときも、母の葬儀のときも、ずっとセラの手を握っていてくれた。何があってもそばにいるからね、と言っているかのように。あの手の温もりと優しさを忘れたことはなかった……。 姉とスノウの共通点を見つけた。性格も好みもまるで違うけれども、ひとつだけ、共通点がある 二人とも大好きだよ、とセラは心の中でつぶやく。それが共通点だ。 「うん、大丈夫。だから、ちゃんと話して、ちゃんと認めてもらうの」「けど怒らせたら、俺、半殺し?」 スノウが冗談めかして言う。噴き出したくなるのをこらえて、セラは大真面目な表情をつくった。「それで済んだらいいけどね。お姉ちゃん、キレたらコクーン壊しちゃうかも」「あー、やりそうだ」 スノウが眉根を寄せる。が、それが限界だった。セラがたまらず笑い出すと、スノウも仰け反らんばかりに爆笑する。 お姉ちゃんとスノウと三人で、こんなふうに笑えるといいな、と思う。できるよ必ず、と付け加える。誕生日の夜になったら。 スノウさーん、と呼ぶ声が聞こえたのは、ひとしきり笑った後だった。「どうした、マーキー!」 まっすぐに飛んでくるエアバイクに向かってスノウが叫んだ。「出動でーす! 軍の無線拾ったら、森林地区に魔物だそーです。ノラの出番っすよー!」 わかった、とスノウが答えたときには、もうエアバイクは目の前に停まっていた。「セラさん、ちょっと大将借りますんで」「はーい」 セラは戯けて敬礼してみせる。一歳違いのマーキーには、どこかクラスメートに対するような気安さがあった。「いいとこ邪魔して、すんませーん」 にやつくマーキーに、「てめえ」とスノウが拳を打ち込む真似をする。その様子は、仲の良い兄と弟がじゃれ合っているようだ。「それじゃ、私、帰るね」「待った! あー、ちょっと待っててくんねぇか。一緒に買いに行こう」「何を?」 エアバイクに飛び乗り、スノウが片目をつぶった。「お姉さんへのプレゼント」「あ、誕生日の!」「二人で選ぼう。なんだったら、先にショッピングモールのほうに行って、下見しててもいいし……」「ううん。ここで待ってる。異跡の周りでも散歩してるから」 了解、という声とともにエアバイクが飛び立つ。「速攻で片づけてくる!」 気をつけてと手を振ったときには、スノウとマーキーは上空にいた。本当に速攻だね、とセラは笑った。 CHAPTER 03  あからさまに不機嫌な顔をしていなかったか、それだけが気がかりだった。 昨夜は帰宅したのが深夜だったから、セラとほとんど話らしい話はしていない。疲れているからと早々に自室に引きこもり、余計なことは言わないようにした。うっかり口を開けば、あの男と別れろと怒鳴ってしまいそうな気がしたのだ。 頭ごなしに交際を反対したくなかった。妹の気質はこの自分が誰よりも知っている。従順そうでいて、意外に芯は強い。ただ気に食わないという理由で反対すれば、セラはわからず屋の姉を翻意させるべく、粘り強く説得しにかかるだろう。どうしたものか。 ライトニングはため息をついて、朝食の載ったトレイを片づけた。早出の日は二人で食卓を囲めるが、今日のように遅出となると、ライトニングが起き出す頃にはセラは出かけてしまう。 それでも、勤務時間が不規則な姉のためにと、セラは出かける前に必ず、手早く食べられる朝食を用意しておいてくれた。父が早くに亡くなり、ずっと母が働いていたこともあって、家事のキャリアはライトニングのほうが長い。にも拘わらず、料理の腕だけはセラのほうが上だった。『おいしいものを選ぶのは、セラのほうが得意でしょう?』『うん。お料理だって得意だよ』 不意に母とセラの会話が蘇った。楽しげに笑う顔と。けれども、そのとき母の身体は病魔に蝕まれていた。 あれは亡くなる直前のことだった。その日も、学校が終わるとライトニングはセラを伴って母の入院先へと向かった。今にも走り出しそうなセラの手をしっかりと握って、『危ないから走っちゃだめ』と何度も言った。 いつもなら、口ではそう言いながら自分も早足になってしまうのだったが、その日だけは違った。前日、帰り際に主治医から告げられた事実が足取りを重くしていた。次に発作を起こしたら危ない、と……。 他に伝える身内がいなかったがために、主治医はまだ十五歳だったライトニングだけに母の病状を話したのである。万が一のときには福祉課の相談員を紹介するからとも言われた。いくつかの相談窓口も教えられた。 保護者のない子供が不自由なく暮らしていけるような仕組みがきちんとあるから、必要以上に心配しなくてもいい、君は自分のことと妹さんのことだけを考えていればいいんだよ、と主治医は言った。 ただ、その優しい言葉で、ライトニングは自分が背負うべきものを悟った。その悲壮感が顔に表れていたのだろうか。少なくとも母にはわかっていたのだと、今にして振り返るとそう思う。『今日はとても気分がいいのよ。そうね、何か果物が食べたいわ。セラ、買ってきてくれる?』 私が、と立ち上がりかけるライトニングを母は笑って制した。『おいしいものを選ぶのは、セラのほうが得意でしょう?』『うん。お料理だって得意だよ』 セラは誇らしげにそう言って、病室を駆け出していった。 『お姉ちゃんには、お料理のほかにもやらなきゃいけないことがいっぱいあるものね』 セラの足音が聞こえなくなると、母は微笑んでライトニングを見つめた。ああ、母さんにはわかってるんだ、と思った。だからセラをお願い、そう続くのだろうと予想したが、それは外れた。『でも、一人でがんばりすぎないで。セラに助けてもらえることだってあるのよ』『母さん、でも……』 その先は言えなかった。すっと母の手が伸びてきたのを見た。気がつくと、抱き寄せられていた。小さな子供のように頭を撫でられ、泣き出しそうになった。『可愛い甘えんぼさん。そう呼んでたのよ、セラが生まれるまでは』『そんなの、覚えてない……』『セラが生まれた日から、あなたはもうお姉ちゃんだったもの。たった三歳だったのにね。私も父さんも、あなたを甘えんぼさんなんて呼べなくなっちゃった』 笑いながら話す母の声が、わずかに苦しげであることに気づいた。髪を撫でる手が驚くほどやせ細っていたことにも。『父さんが死んだ後、ずっと助けてくれたわね。セラの面倒もよく見てくれた。あなたは、とてもいいお姉ちゃんだった。だからね、セラのことは何も心配していないの。あなたがいてくれるから』 でも、と母は続けた。 『あなたにも、セラがいてくれるのよ。つらいときは助けてくれる。ちゃんと力になってくれる。それを忘れないで』 そして母は、もう一度だけ、ささやくような声で『私の甘えんぼさん』と呼んだ……。 母の容態が急変したのは、それからまもなくのことだった。覚悟はできていたから、静かにその事実を受け入れた。 あの日、母に抱かれて幼な児のように甘えたあの瞬間が、子供時代の終わりだった。母と呼べる人がいなくなったときから、自分は子供ではなくなった。子供でいられなくなった。『一人でがんばりすぎないで』 母はそう言ったけれども、セラを守れるのは自分一人なのだから、やっぱり一人でがんばるしかない。 大人になりたい。痛切に思った。セラを守るために、たった一人の妹に幸せな日々を与えるために、早く大人になりたかった。 法的に大人と認められない年齢なら、せめて親に貰った名前を捨てて大人になろうと思った。 もういいよね、母さんの娘であることをやめても。その代わり、今日から私はセラの保護者になる。必ずセラを守るから。 母の墓前でそう誓った。ライトニングという新しい名を告げて。 ホルスターを取り落とす音で我に返った。無意識のうちに身支度をしていた自分に気づき、ライトニングは苦笑した。まだ自宅を出る時間ではなかった。 そもそも、予定よりもずいぶんと早く起きてしまったのだ。やはり昨日の出来事のせいで気が昂ぶって、眠りが浅くなってしまったのだろう。 無理もない、と何度めになるかわからないため息をつく。……よりにもよって、あんな男だったとは。 妹に言い寄る男をすべて追い払おうとするほど、自分は過保護な姉ではないし、狭量な人間でもない。ただ、セラを幸せにして欲しい。守ってやって欲しい。それができる男以外、セラに近づけたくなかった。 口のうまさも見てくれの良さも要らない。セラを大切に思い、身を挺してでも守ってくれるのならば。 だから、あんな浮ついた男にセラが守れるものか、と思う。所詮、お山の大将だ。己の身が危うくなれば、セラを放り出して逃げるに決まっている。 セラもセラだ。少し頭を冷やせばわかりそうなものではないか。ハイスクールの優等生と、ろくな仕事もせずにふらふらしているような男とでは、釣り合うはずもないことくらい。 母さんが生きていたら、一緒になってセラを止めてくれただろうか? あまり期待はできないな、とライトニングは小さく肩をすくめた。実のところ、父もまた、少しばかり危なっかしいところのある人だった。楽天家で、お人好しで、行動力のある人だったけれども、決して堅実なタイプではなかったと、大人になった今ではわかる。  もちろん、子供の頃はそんな父が大好きだった。記憶の中にある父はいつも明るく笑っていたけれども、父がもう少し長生きしていたら、自分は父の楽天性に対して批判的だっただろう。何かにつけて反発していたかもしれない。 その父を選んだ母である。スノウのような男に対する評価も甘いに違いなかった。案外、「セラが好きになった人なら」と、あっさり交際を認めてしまうかもしれない。 どのみち、あの男からセラを守るのは自分の役目だったのだ。母でも、まして父でもなく。 父さんと母さんが認めたって、私は認めない。絶対に。 革手袋をはめ、自室のドアを開ける。少し早いが出かけようと思った。 CHAPTER 04  古い記録によれば、ボーダム異跡は数百年前からここにあるという。 コクーンの古い建造物や住居跡の類が「遺跡」「遺構」と呼ばれるのに対して、下界から引き上げられたものを「異跡」と呼ぶ。 年代的に考えれば、このボーダム異跡は、黙示戦争で破損した箇所を修復するための材料として引き上げられたのだろう。ファルシがコクーンを整備したり、補修したりするための材料を下界から集めているのはよく知られている事実である。 ただ、不思議なことにこの異跡は、数百年もの間、補修材料にされるでもなく、加工されるでもなく、かといって下界に戻されるでもなく、そのままの形でずっとボーダムに放置され続けてきたらしい。 何らかの意図があって手を加えずにいるのか、次に補修が必要になったときの予備として保存しているのか、そこまではわからない。寿命のないファルシには数百年などほんのつかの間なのだろうし、そもそもファルシの考えを人間の尺度で推し量ろうとすることに無理がある。 いずれにしても、それらすべてが謎だった。聖府の中枢に近い人々なら何か知っているのかもしれないが、セラのような民間人には何ひとつ明かされていない。「何度見ても、不思議……」 セラは天に向かって聳え立つ異跡を見上げた。いったいこれは誰の手によって造られたものなのだろう?  下界に普通の人間は住めない。度重なる天変地異と、凶悪な魔物ばかりが蔓延るというこの世の地獄。そこに住むのは、せいぜい野蛮人の類だと聞いている。そんな彼らに、これほど巨大で、複雑な造形をもつものが造れるはずもない。 下界にもコクーンと同じくファルシがいたと聞いている。ただ、人間に恵みをもたらすコクーンのファルシとは異なり、下界のファルシは人間に災いをもたらすという。 だとすれば、これを造ったのは下界のファルシでもないはずだ。そんな恐ろしい存在が創造したものならばコクーンに無害であるはずはないし、コクーンのファルシがとっくに破壊して、補修材料にしているだろう。 下界のファルシでも、野蛮人たちでもないとしたら、この異跡は誰が造ったのか? それが知りたくて、これまで何冊もの歴史書や資料を繙いてきた。しかし、明確な答えは得られなかった。遠い昔の話なのだ。無理もない。 ただ、そうやって謎解きを試みたのをきっかけに、セラは歴史が好きになった。学校でも歴史の成績は飛び抜けて良かった。 このボーダム異跡を間近に見て育ったのでなかったら、ここまで歴史を好きになったかどうか、わからないとさえ思う。 解き明かされずにある「謎」は、それだけでどこか心を浮き立たせるものがある。たとえ正解でなくても、その答えをあれこれと想像するのは楽しい。もちろん、それが解き明かされたら、もっと楽しいだろうとは思う。 「中に入れたらいいのにね」 だが、異跡に入り口らしきものはない。内部に関する情報も公開されていなかった。建物のように内に空間があるのか、そもそも「内部」など存在しないのか……。 外壁にそっと手を触れてみる。石でも金属でもない、冷ややかな感触。いや、金属なのだろうけれども、自分の身の回りにあるそれとは何かが違う気がする。少なくとも、建造物にこんな素材は使わない。 これが下界で造られた頃は、きっと全然違う手触りだったのだろう。数百年もの間、コクーンの風雨に晒され続けてきたのだ。手触りだけでなく、色や形も少なからず変わってしまったに違いない。 異跡の天辺を見上げながら、ゆっくりとその周囲を歩く。視線は固定したままで。こうすると、まるで異跡が動いているかのように見えるのだ。幼い頃、姉に教わった遊びだった。その姉は亡くなった父に教わったという。セラもその場にいたらしいが、全く記憶になかった。 ここは変わらないな、とセラは思う。五年前も、十年前も、現在も。だから、五年先も、十年先も変わらないのだろう。自分が死んでしまった後も、異跡だけは変わらずにこの場に在り続けるに違いない……。 と、違和感を覚えた。異跡の外壁に触れていた指先がいつもと異なる感触に変わった。セラは驚いて視線を戻す。 外壁が本来あるべき場所と、ずれてしまっている。その「ずれ」は内側に向かって広がっていたさらにその先を見て、セラは瞠目した。「開いてる!?」 いつからだろう? 何日か前にここを通ったときには、変わりはなかった。幼い頃からずっと見てきたから、ささいな変化であっても見逃しはしない。まして、異跡の「入り口」が開いていたのならば。 それとも、聖府の調査隊が異跡の扉を開けることに成功したのだろうか。セラはそっと「入り口」に歩み寄る。「誰か……いるの?」 返事はない。警備兵らしき姿もないということは、正式な調査ではないのかもしれない。「ちょっとだけなら、いいよね」 無断で中に入ったことがばれたら、後で厳しく注意されるだろうが、好奇心には勝てなかった。 セラはそっと異跡の中へ足を踏み入れた。いくつもの想像を巡らせ、叶うことなら内部を見たいと願っていた、下界の異跡。コクーンの外からやってきたもの。その秘密に迫れるかもしれないと思うと、わくわくした。 だが、いざ中に入ってみると、そんなふうに感じたこと自体が不遜だったのではないかと思えた。それほどまでに異跡の中は涼やかで清浄な空気に満ちていた。 吹き抜けになった内部は、外から見るよりもずっと広く感じた。その広い空間に通路や階段が張り巡らされている。ここが無人であるのは明らかだった。見渡したところ人の姿はないし、話し声どころか、物音ひとつ聞こえない。 にも拘わらず、異跡の中は明るかった。見れば、通路の至る所に明かりが灯っている。セラが進むと、どんな仕掛けになっているのか、まるで案内するかのようにそれらはわずかに明るさを増した。「すごい……!」 つぶやいたつもりの声が予想外の大きさで反響し、セラはあわてて口許を押さえた。ああ、びっくりした、と今度は声を出さずに息だけを吐く。 それにしても、変わった建築様式だった。どうやら床は石造りらしいが、コクーンの古代建築とは明らかに違う。床も壁も通路も、直線ばかりで構成されている。とはいえ、決して稚拙なわけではない。直線と直線が精巧に組み合わされて、何とも言えない調和を醸し出していた。「何があるんだろ?」 吹き抜けの上を見上げて、セラは首を傾げた。天井付近は下から見てもわかるほど明るい。そこへ続く階段があるのだから、何かあるはずだ。 次の瞬間、ひとつ上の踊り場が明るくなった。まるで、「知りたいなら、おいで」と言われたような気がした。セラは迷わず階段に足をかけた。足音が響き渡る。コクーンにある階段よりもいくらか段差がきつい気がしたが、上るのに骨が折れるほどではない。 しばらく上ると、また平坦な通路になった。が、それもまた、すぐに階段に変わる。長い階段が続いても、疲れは感じなかった。今までに見たどの博物館や資料館よりも面白い。幾何学的な壁の装飾も、正方形を組み合わせた床の模様も。セラは夢中になって上を目指した。 通路や階段はかなり複雑な構造になっていたが、迷うことはなかった。さっきの階段と同じように、進む先が明るくなるのだ。その案内に従えば、着実に上の階へと進むことができた。 いったいこれは何のために造られたものなのだろう。昔から幾度となく繰り返してきた疑問がまた浮かんだ。ただ、中に入ってみた今では、これが悪い目的で造られたものではないと確信できた。何より、この空間にはおよそ邪気と呼べるものが感じられない。「でも……ちょっと疲れたかも。一番上まで上るのは無理かなあ」 いくつもの階段と通路、扉と小部屋、そんなものを繰り返した後だった。階段から少し身を乗り出すようにして下を見ると、まだ半分も上っていないことがわかる。天まで届きそうだと思いながら見上げてきた異跡である。そう簡単に上れる高さではないのは知っていた。「あと少しだけ……」 引き返すなら、せめて半分まで上ってからにしようと、だるくなった両足を励ます。肩で息をしながら階段を上りきったときだった。「きれい!」 踊り場の端に、淡く光る円柱が見えた。これまでの通路にあった明かりとは違う、緑色の光だった。「あそこで休憩すればいいんだ。きっと休憩所って意味だよね」   近づいてみると、光る円柱は思いのほか高い場所にあった。淡く優しい光が疲れを癒してくれるかのように、その下に降り注いでいる。うん、やっぱり休憩所だとセラが台座にもたれかかったときだった。 不意に異跡内部が鳴動した。セラは驚いて飛び退いた。目の前で床や壁が音を立てて動き始める。あまりにも楽天的な勘違いをしていたらしいと気づく。この円柱は休憩場所のしるしなどではなく、何かの起動装置だったのだ。 セラは不安になって辺りを見回した。さっきまで階段だったはずの場所が平坦な通路になったり、通路が壁でふさがったりと、内部の構造が大きく組み変わっていくのがわかる。すぐ下の階では、巨大な筒を横倒しにしたような装置が唸りを上げている。あれが動力装置だろうか。 突然、目の前の階段が消滅した。他と同じように平坦な通路が現れるかと思ったが、違った。階段があったはずの場所には、ただ何もない空間だけが続いている。つまり、ここで行き止まり、ということだ。「どうしよう……」 鳴動が止み、再び静寂が訪れる。安堵したのも束の間、今度は目の前の空間に赤い模様が浮かび上がった。ここより下の階層でも見かけた奇妙な模様だった。ただ、それよりずっと前に、どこかで見たような気もしていた。どこだっただろう? と、赤い模様が強い光を放った。セラは思わず後ずさった。何もなかったはずの空間に板状の物体が現れる。板というよりは、宙に浮く床と言ったほうが近いだろうか。 「これって、昇降機……だよね? すごい昔の」 以前、同じように古い昇降機のある遺構を見学に行ったことがあった。ただ、目の前の「昇降機らしきもの」はコクーンのそれとはかなり形状が違う。「乗ってみればわかるよね」 えいっ、とセラは飛び乗った。危険だとは思わなかった。なぜなら、通路や階段と同じく、昇降機の上が明るくなったからだ。 その判断は正しかった。昇降機はゆっくりと上昇を始める。何も知らずに台座にもたれかかったものの、結果的には正解だった。なるほど、あの場所で昇降機を作動させて上へ向かうようになっていたのかと、セラは納得した。 丸天井が近づいてくる。その周辺はまぶしいほどに明るい。やがて昇降機が止まった。最上階に着いたのだろうか。心なしか、下層部よりも空気が冷たく澄んでいる。「これは……クリスタルの粒子?」 その冷たく澄んだ空気の中を、小さな光の粒が舞っている。美しいというよりも、どこか身の引き締まる思いがする神聖な光景だった。覚えず背筋が伸びた。煌めく粒が漂う中をセラはしずしずと進んだ。こういうときに祈りが生まれるのだろうとも思った。 扉が左右に開く。すべての答えを教えよう、と告げるかのように。 中に入る。暗い。入ってはならない場所だったのだろうかと、不安がよぎる。だが、ほどなく通路がわずかに明るくなった。もっとも、さっきまでの階段や通路に比べれば暗い。それでも暗闇ではなくなったのだから、これが正しいルートなのだろう。 セラはそのまま進んだ。薄闇に近かった通路がほんの少しずつ明るさを増していく。やっぱりこっちで正解、大丈夫、と自分に言い聞かせる。「何かが……いる?」 薄暗がりの中、セラは目をこらした。行く手に何かが、巨大な何かがある。いや、いる。その何かが動いた。その中心に、冷たい輝きがある。「クリスタル!? でも、どうして?」 次の瞬間、強い光が網膜を灼いた。真っ白な光だった。まぶしくて目を閉じるのを待っていたかのように、頭の中に映像が浮かび上がった。 とても大きくて、とても恐ろしいもの。 何!? 何なの、これ! 叫んでも声にならない。とてつもなく巨大で恐ろしい何かが膨れあがり、のたうつ。たまらず悲鳴を上げる。それすら聞こえない。 違う。聞こえる。歌だ。誰かが歌っている。あれは何の歌だろう? 何を意味しているんだろう? それ以上、考えることはできなかった。その先にはただ闇だけがあった。 CHAPTER 05  気晴らしに散歩でもして職場に向かおうと思ったものの、足が向かったのはやはり仕事絡みの場所だった。ショッピングモールである。 毎年、ボーダムには花火大会を見物するために各地から観光客が集まる。この花火大会は他では類を見ないほど古くから行われてきたもので、それにまつわる言い伝えも多い。 中でも有名なのが、「花火に祈れば、願いが叶う」というものだった。ただそれだけで、他に何も条件はない。ただ祈ればいい。その単純さゆえに、何十年も、或いはもっと昔から語り継がれ、信じられてきたのだろう。 どんな人にも願いはある。どれほど恵まれていて幸せであっても、また幸せでないならなおのこと。だから、花火大会の夜にはボーダムの人口が何倍にも膨れあがるほど、観光客が押し寄せる。 人が集まれば事故や事件の発生率が跳ね上がるのは自明の理。そんなわけで、花火大会の夜にはボーダム治安連隊総出で会場とその周辺の警備に当たる。ライトニングの担当は、このショッピングモールから海辺に至る一画だった。 散歩がてら担当地区の下見をしておくのも悪くない。どこにどんな店があるか把握しておけば、部下を割り振る際の参考になるし、事前に移動し撤去すべきものが見つかるかもしれない。 たとえば、このアクセサリーショップ周辺には人員を多めに配したほうがいい。それでなくても宝飾関係の店は窃盗の被害に遭いやすい。店側にも防犯装置の動作確認をしておくように連絡しておこうと思った。 ふとウィンドウのディスプレイが目に入った。細いチェーンに大振りなトップのついたペンダントが飾られている。コクーンと何か不思議な形のものを組み合わせたペンダントトップだ。この手の品に詳しくはないけれども、セラが喜びそうだな、と思った。 ショッピングモールを端から見て歩きながら、こんなにじっくりとショップを眺めるのは久しぶりだったと気づく。セラの買い物につき合ってやったとき以来だ。そういえば、セラと二人で出かけることがなくなって久しい。つまり、入隊してからずっと、ということだ。 不意に後ろめたさを感じた。入隊した当初は、仕事に慣れて余裕ができたら、ちゃんと埋め合わせをしようと思っていた。しかし、一年が経つと、それなりに責任ある立場となり、ますます忙しくなった。気がつけば、二人で出かけるどころか、語らうことすら思うに任せなくなっていた。 入隊した頃、セラはまだミドルスクールだった。進路の不安や対人関係など、悩み多き年頃である。きっと相談したいことがいくつもあっただろう。なのに、自分は仕事にかまけてろくに話も聞いてやらなかった。 セラは寂しかったのかもしれない。心細くて、話を聞いて欲しくて……スノウのようなちゃらちゃらした男に引っ掛かった。 だとしたら、責任はこの自分にある。もっとセラに構ってやっていれば。忙しくとも、工夫すれば時間のやりくりくらいはつけられただろうに。なぜ、それをしなかったのか。  母の墓前でセラを守ると誓ったのに、寂しい思いをさせた挙げ句、つまらない男を呼び寄せる結果になってしまった。本を正せば、何もかも自分の至らなさのせいだった……。「まあ、可愛い!」 はしゃいだ声に、ライトニングは振り返った。ペットショップの前に運搬用のコンテナが停まっている。「母さん、こんなの好きなの?」「あら。あなただって好きだったじゃないの。買って買ってってお店の前で大泣きして」「それ、いつの話だよ」「ほんの少し前。……十年ほどね」 母親と息子の二人連れがペットショップのコンテナを覗き込んでいる。後ろ姿とやり取りだけでも、仲の良さが伺えた。息子のほうは涼しげな銀色の髪だったけれども、母親のほうはそれよりいくらか暖かみのある色である。髪の色は若干違っても、顔立ちのほうはよく似ているのだろうな、男の子は母親に似るとも言うから、などと想像してみる。 背格好から推測して、十四、五歳だろう。明るいオレンジ色のジャケットはいかにもその年頃の男の子らしい。自分が母を亡くした頃を思うと、少しばかりうらやましく思えた。「こいつは、子供たちの間で大人気なんですよ。賢いし、よく懐きますしね」 ペットショップの店員はそう説明しながら、手のひらに載るほどの小さな鳥をせっせとコンテナからケージに移している。チョコボの雛だ。 「あっちでもこっちでも、『ひなチョコボ完売』っていう赤札だらけですよ。エウリーデの店なんて、一昨日仕入れたのにもう完売寸前でね、これから補充に行くんです」 自分たちが子供の頃は、まだ今ほどのブームではなかったが、クラスに一人や二人はひなチョコボを飼っている子供がいたものである。セラも、遊びに行った友人宅にひなチョコボがいたと、目を輝かせて話してくれたことがあった。「おひとついかがですか、奥さん」「残念だわ。今は旅行中なの。連れて帰るにはパルムポルムは遠いし……」 旅行中、と聞いた瞬間、閃くものがあった。旅行。いいかもしれない。 ずっと寂しい思いをさせてきた罪滅ぼしに、セラをどこかへ連れていってやろうと思った。長い休暇は取れないけれども、当直明けと短い休暇を組み合わせれば、ちょっとした旅行くらいできる。 花火大会が過ぎれば、多少、勤務にも余裕ができるから、休暇の申請もしやすくなるだろう。 そうだ、誕生日の夜にこの話をしよう。いつもセラは、手の込んだ料理と、一生懸命考えて選んだとわかるプレゼントを用意して祝ってくれる。そのプレゼントのお返しとして、姉妹二人での旅行を贈ろう。 旅行の間は、たっぷりセラの話を聞いてやるのだ。今までの分まで。思いっきり楽しい思いをさせてやって、おいしいものを食べさせて。 もちろん、旅行から帰った後もできるだけセラと話す時間を作る。心細いとか、寂しいとか、そんな気持ちが消えれば、セラだってきっと目が覚める。つまらない男に引っ掛かりそうになっていたことに気づくはずだ。 それに、遅かれ早かれセラはエデンの大学に行く。新しい友人ができて、良い環境が与えられれば、スノウのことなんてきれいさっぱり忘れてしまうだろう。 我ながらいい思いつきだと思う。これも、旅行というヒントを与えてくれたあの親子のおかげだ。 感謝の気持ちを込めて振り返ったときには、もうペットショップの前に二人はいなかった。肩を並べて歩いていく後ろ姿が人混みの向こうに消えていく。幸せそうな親子だったな、と温かい気持ちでいっぱいになる。 ありがとう、あなたたちの旅がこの先も楽しいものでありますように、とライトニングは祈った。 CHAPTER 06  闇の中で声を聞いた。ルシ、と聞こえた。消え入りそうな声だった。「なんで……」 今度はいくらかはっきりした声がした。「なんでコクーンの奴を選ぶんだ?」 誰だろう? 何を言っているんだろう? あなたは誰、と問いたかったけれども、声が出なかった。目を開くことも、指先を動かすことも、何ひとつ思うに任せない。 ふわり、と身体が浮いた気がした。 何がどうなっているの? その疑問が浮かぶのと同時に、また闇が深くなった。抗うことすら思いつかないまま、セラの意識は再び途切れた。 ふっと瞼の裏側が温かくなるのを感じた。何も考えずに目を開けると、空の色が飛び込んできた。そして、見慣れた異跡の外壁の色が。 いつの間にか自分が異跡の外にいて、地面に横たわっていることに戸惑う。恐る恐る右手を持ち上げてみる。動く。続けて左手も。大丈夫、両手とも動かせる。 ゆっくりと上体を起こすと、軽い目眩を覚えた。両手を地面についたまま、セラはしばらくじっとしていた。 いったい何が起きたのか? 異跡の周りを歩いていた。それから? 異跡の入り口が開いていて中に入った。それから? いくつも階段を上って、いくつも通路を歩いた。それから? 緑色の光の装置が起動して、赤い光の模様が浮かび上がって、上へ上がって、奥へ進んで……。 巨大なクリスタルを見た。そして、真っ白な光を。そこで記憶は途切れていた。まるであの光に灼き切られたかのように。あのとき、いったい何が起きたのか。あの光は何だったのか。『なんでコクーンの奴を選ぶんだ?』 あの声が耳に蘇った。夢だったのだろうか。そうかもしれない。意識が朦朧としていたし、異跡の中には人の気配などなかったのだから。 それに、意識が途切れる寸前に視た、あの不思議な映像。いや、不思議という言い方はそぐわない。恐ろしい、おぞましいもの。そう、あれの名は……。違う。夢だ。あれは悪い夢だった。 でも、とセラは思い直す。自分自身がここにいることが、異跡の中に「誰か」がいたという何よりの証拠だ。気を失った自分を運び出したのは誰なのか。セラは必死で記憶を探った。 他にも何か聞いた気がする。そう、「ルシ」だ。 ルシ? あのルシのこと? まさか、とセラは首を横に振った。ルシなんて古い言い伝えに過ぎない。おとぎ話や伝説の類に近い。 頭の芯が鈍く痛んだ。倒れた拍子にどこかにぶつけたのかもしれない。他に怪我はしていないだろうか。 ゆっくりと足を動かしてみる。痛みはない。頭を上げる。もう目眩はしなかった。異跡の外壁につかまって、立ち上がった。少しふらつくような気がしたが、立っていられないほどではない どうやら怪我はしていない。安堵の息を吐いたときだった。左腕が黒く汚れているのが目に入った。 いやだ、と眉根を寄せて覗き込んだセラは、首を傾げた。「何、これ?」 二の腕に黒い模様が浮かび上がっている。悪戯書きにしては、あまりにも精巧な意匠だった。かといって、レブロが肩の下に入れているタトゥとも少し違う気がした。「洗えば大丈夫かな。ちゃんと落ちなかったらどうしよう」 指先で触れてみて、はっとする。この模様には見覚えがあった。 矢印をいくつも組み合わせたような、複雑な模様。この左腕の模様と全く同じではないけれども、よく似ていた。そう、異跡の中で何度か目にした、赤い光が描き出したもの。 いったい、あの部屋で何が起きたのか。この模様は何を意味しているのか……。「あっ!」 セラは小さく叫んだ。思い出したのだ。異跡の中でこの模様を見たとき、以前にもどこかで見たことがあるような気がした。そうだ、確かに見ていた。ずっと以前、図書館で借りた資料集で その昔、下界から敵が攻めてきたとき、コクーンのファルシは人間を「ルシ」に変え、自らの使いとして特別な力を与えたという。ルシたちは、コクーンを守るため果敢に戦った。黙示戦争の記録である。 コクーンを憎悪する下界のファルシもまた、野蛮人たちをルシに変え、コクーンに送り込んだ。その解説のページだった。これと同じ模様を見たのは。その下には「ルシの烙印·下界·再現図」という文字があった……。「私がルシ?」 それも下界の。「まさか。あり得ない」 これはたちの悪い悪戯だ。異跡の中で聞いた声の主たちの嫌がらせに違いない。『なんでコクーンの奴を選ぶんだ?』 心臓が音を立てて跳ねた。あの言葉。あれはまるで「本来ならコクーンの人間が選ばれるべきではない」と言っているようではないか。ならば、コクーン以外のどこに人間がいるというのだろう。「下界……?」 そうだ、この異跡は下界から引き上げられたもの。あの声は「本来ならば下界の者が選ばれるべきなのに、なぜコクーンの者が選ばれたのか」と言っていたのだ。 あの声は「選ばれる」ということ自体には疑問を抱いていないようだった。つまり、あの場でルシが選ばれることを知っていた。そして、ルシを選ぶのはファルシ。 だとしたら。「異跡の中には、下界のファルシがいた?」 それですべてが符合する。中空に舞うクリスタルの粒子の意味も、意識が途切れる直前に見た巨大なクリスタルも。そこにいたのがファルシであるならば。セラはそのファルシに遭い、ルシにされてしまった。楽園を憎み、人に災いをもたらすという下界のファルシによって。 コクーンのファルシに選ばれたルシは「聖なる使い」だが、下界のファルシに選ばれたルシは「悪魔の手先」でコクーンの敵だ。「私が? ううん。嘘だよね。あり得ないよ」 セラは左腕の黒い模様を手のひらで強く擦った。……落ちない。「こんなの、ただの落書きなんだから!」 さらに強く擦ろうとして、セラはぎょっとした。黒い模様がわずかに変化している。消えたのではない。形と濃さが変わったのだ。「嘘……!?」 ただの落書きなどではなかった。これは確かに、人ならざるものの手によって刻まれた。「いやだ。いやだよ、こんなの」 セラはその場に膝をつく。あり得ない、何か馬鹿げた勘違いをしているだけ、必死でそう思い込もうとしても、腕の烙印がそれをことごとく打ち消した。 なまじ知識があるだけに、己の身に起きた出来事を否定することができない。いっそ何も知らなければ、何もわからなければ、まだしも楽だった。「スノウ……。お姉ちゃん……怖いよ」 寒くもないのに肩が震えた。拭っても拭っても涙がこぼれた。「助けて。スノウ……」 とはいえ、泣いていられたのはほんのつかの間だった。もうすぐスノウが戻ってくる。見られたくなかった。この忌まわしい烙印を。知られたくなかった。コクーンに害をなす存在となった自分を。 頽れそうになる両脚をなだめ、セラは必死で立ち上がる。 早くこの場を立ち去らなければ。スノウが戻ってくる前に。その思いだけがセラを衝き動かしていた。 CHAPTER 07  セラはどこへ行きたいと言うだろう? それを思うと、自然に笑みがこぼれた。ショッピングモールを歩くライトニングの足取りは、先刻とはうって変わって軽い。 モール内の旅行代理店を利用するのは初めてだったが、スタッフはとても親切で感じが良かった。短い休暇でも十分に楽しめる候補地を数カ所、即座に探し出してくれた。 それらのデータは自宅宛に転送してもらった。あとは誕生日の夜にそれを見ながら、二人で計画を立てればいい。二人きりの旅行なんて初めてだから、セラはきっと大喜びするだろう。 セラの笑顔を思い浮かべただけで、灯が点ったように胸の内が明るく温かくなる。私の宝物だ、と思った。その宝物に、心の中で誓う。 悪かったな、セラ。今まで構ってやれなくて。これからは絶対、寂しい思いなんてさせない。仕事を言い訳にしたりもしない。約束するから。 思えば、母の死後、ただ前だけを見てがむしゃらに走り続けてきたような気がする。そろそろ速度を緩めてもいい。時には立ち止まることだって必要だろう。セラと、自分自身のために。 人混みの中、変わった格好の二人連れとすれ違う。昨日の装飾過多な男と露出過多な女を掛け合わせたような服装の黒髪の女だ。昨日から黒髪の女に縁があるな、とライトニングは独りごちる。 ただ、昨日の女よりも野性的で精悍な感じがする。あの青い服のデザインのせいだろう。いわゆる「流行の最先端」とやらに違いない。連れの女も同じ系統の、おそらく同じブランドと思しき服を着ている。首都エデンから来た観光客だろうか。「ファッションの流行ってやつはわからないな」 思わず肩をすくめたときだった。「何がわからないって?」 背後で耳慣れた声がした。アモダ曹長だった。軽く敬礼をした後、二人連れの去っていったほうを指し示す。「あの二人連れの服装が……」 いない。どこかの店にでも入ってしまったのだろう。「二人連れ?」「いえ。要するに、最近のファッションはよくわからないなと」 昨日の連中といい、と声に出さずに付け加える。全くもって理解不能だ。「軍曹はともかくとして、妹さんのほうはそういう……ええと、最近のファッションとやらに興味があるんじゃないのか?」「あんな服を着たいなんて言い出したりしたら」 絶対許さない、と言いかけて口をつぐむ。アモダ曹長にからかわれたことに気づいたのである。これだから曹長は、とライトニングは苦笑する。「ところで、軍曹。勤務前にショッピングモールとは珍しいな。買い物か? 最新流行の」 「その話はもう結構です」 わざと切り口上で言うと、アモダ曹長は両手を挙げて降参の仕種をした。「下見ですよ。花火大会の担当地区がこの辺りですので。ショッピングモールは店舗の入れ替わりも少なくありませんし」「仕事熱心なのはいいが、今から見回ってたんじゃ、当日やることがなくなるぞ?」「そういう曹長こそ、なぜここへ?」 意地悪い口調で切り返してやる。理由は尋ねるまでもなくわかっていた。アモダ曹長とのつき合いはその程度には長い。「まあ、なんだ。軍曹と同じだよ」「やることがなくなりますね」「年寄りは忘れっぽいからな。若いもんと違って。当日には忘れとるよ」 顔を見合わせて笑う。「今年も無事に終わるといいですね、花火」 八日後の夜には、このボーダムの空にいくつもの大輪の花が咲く。願いを叶えたい人々が集まる夜だ。そして、翌日は二十一歳の誕生日。久しぶりにセラとゆっくり話ができる。そう思うだけで心が弾んだ。「おっと。のんびりしちゃおれんな。時間だ。急ごう」 姿勢を正し、ライトニングはまっすぐに前を向く。今日の勤務が始まる。軍人としてのスイッチを入れる時間だ。「了解です、曹長」 午後の陽射しがまぶしい。買い物を楽しむ人々の間を縫うようにして、二人は足早に歩く。 他愛のないおしゃべりと、明るい笑い声とが飛び交っている。そんな臨海都市ボーダムのごくありふれた光景をライトニングは見ていた。妹のセラもまた、同じ光景の中にいると信じて。 第一話 完 第二話「FRIENDS(友達)」 CHAPTER 01  夕方の電話はいつもいやなことを連れてくる。たったひとつの例外もなく。 たかだか十四年生きてきた程度で例外がないと決めつけるのは早計かもしれない。でも今日だってそうだ、とホープは母の後ろ姿に目をやった。「いいえ、大丈夫。二人で先に楽しくやってるわ。いいところよ、ボーダムは。宿も申し分ないし、海がね、とても素敵なの」 電話の相手は父だった。着信音が鳴った瞬間、ホープにはそれがわかった。父の用件にも想像がついた。何しろ今は夕方だ。母の肩越しに見える窓の外は、すでに暮れ時の色に変わっている。「そう……そうなの。わかったわ。残念だけど」 当たり、だった。わずかに沈んだ母の声で確信を持った。急ぎの仕事が入った、だから明日はまだ行かれそうにない……とまあ、そんな内容だろう。 本来ならば、家族三人での旅行のはずだった。海辺のリゾート地で十日間、コンドミニアムを借りての滞在型プラン。母は半年も前から今回の計画を立てていた。駆け足の観光旅行じゃなくて、のんびり楽しみたいから、と母は言った。久しぶりに三人でゆっくりしましょうよ、とも。 その言葉で母の目的がわかった。「多忙な父親」と「難しい年頃の息子」との距離をどうしたものか、常日頃から心を砕いている母である。なるほど、旅先という非日常的な場で向き合い、語らう時間を持つのは良い方法には違いない。あくまで一般論ではあるけれども。 その一般論とは裏腹に、ホープにとって気の進まない旅行だった。十日間も父と顔をつきあわせて何を話せばいいのか。考えただけでうんざりした。だから、急な出張で父だけ出発が遅れると聞いたときには、正直なところ、ほっとした。 後半からは合流できると父は言ったが、怪しいものだとホープは思っていた。きっと土壇場になったら、また会議が入っただの、聖府の要人が視察に来るだのと言い訳の電話を寄越すに違いない。 いつもそうだった。父はほんのささいな約束でさえ、仕事にかこつけて反故にする。「いいの。気にしないで。ええ、退屈する暇なんてないもの」 母の声が気を引き立てようと明るくなった。これもまた、いつものことだった。無理しなくていいよ、母さん。そう言ってやりたかった。父が約束を破るたびに、母はそれを責めるどころか、進んで理由や言い訳を考えてやろうとするのだ。 父さんの仕事は大変だから、責任のある立場だから、聖府の偉い人たちに信頼されているから、みんなのためになることだから……。そんな説得力のない言葉を並べる母が気の毒でならなかった。いくら必死に擁護したところで、感謝の言葉ひとつ口にするでもない父である。 父さんにはどうでもいいことなんだ。母さんの優しさも……僕のことも。 母はそれに気づいていないのか、敢えて気づかないふりをしているのかは定かでない。どちらにしても、理不尽な話だ。悪いのは父さんなのに、とホープはつぶやく。 「明日? 私たちは予定どおりエウリーデに行くわ。ええ、そうなの。事故の処理も終わったからって」 エウリーデ峡谷のエネルギー·プラントで大きな事故があったのは、三日前だった。一時は施設を全面封鎖するほどの騒ぎだったらしく、見学ツアーは今日まで中止されていた。復旧作業が終わり、明日から見学者の受け入れが再開されるという連絡が来たのは、つい先刻のことである。「大丈夫よ。もう安全ってファルシが判断したから、見学できるわけでしょ? あなたったら、心配性ね」 父さんが心配なんてするもんか、と反駁を加えてみる。もちろん、口には出さない。そんなことをしても、母を悲しませるだけだとわかっていた。 ただ、頭ではわかっていても、感情は抑えきれなかった。「父さん、来ないんだ? やっぱり」 電話が終わるなり、棘のある言葉が口をついて出てしまう。「仕方がないのよ。ほら、エウリーデで事故があったでしょ。あれで聖府内がばたばたしてて、父さんの仕事にも影響が出てるんですって。あ、でもね、花火大会には間に合わせるからって」 まただ。また、できもしない約束。そんなもの、最初からしなきゃいいのに。「もういいよ。父さんの話は。どうせ、ここにいたって家にいたって、同じことしか言わないしさ。学校はどうだ? ちゃんと勉強してるか? こればっかり。まるで……」  ボイスレコーダーだ、と言いかけてホープはあわてて口をつぐんだ。ほんの一瞬だけ、母の瞳に悲しげな色が浮かんだのだ。「そうだ。母さん、さっき何か手伝ってって言ってたよね」 大急ぎで話を逸らす。この場にいない人間のことで不愉快な思いをするのは馬鹿げている。「そうそう。そうだったわ。野菜、洗うの手伝ってくれる?」「野菜?」「せっかくキッチン付きのコンドミニアムに泊まってるのに、外食ばかりじゃもったいないもの」 そう言いながら母は大きな紙包みを広げた。土のにおいがした。自宅のキッチンでも、食料品店でも嗅ぐことのないにおいだ。「いつの間に買ったの、これ」「今朝、地元の人に貰ったのよ」 そういえば、今朝も母は早起きだった。ホープが二度寝を決め込む間に、散歩に出ていたようだったから、そのときの話だろう。「カフェで使う食材なんですって。マーケットで仕入れるものもあるけど、野菜は自給自足って言ってたわ。はい、ホープはこっちね」 母は野菜を手早く分けると、不揃いな芋類をホープに渡した。母の手許にはこれまた虫食いだらけの菜っ葉がある。商業都市パルムポルムに限らず、どこの食料品店にだって、こんな不格好な野菜は並んでいないだろう。「母さんも物好きだよね」 ホープは肩をすくめて、シンクに水を張った。母の物好きは今に始まった話ではない。「だって面白いじゃない。畑仕事してた人ね、すごくおしゃれでかっこいい男の子だったのよ。カフェの店員さんって聞いて納得だったわ。それから、小柄な男の子もいてね。ホープより少し年上かな?」「どっちにしたって、変わってる。畑仕事って」「そう? 楽しい子たちだったわよ」 自給自足、という言葉の意味は知っていても、その意義となるとホープには理解不能だった。食料生産プラントではファルシの入念な管理の下、栄養価も高く見栄えもいい野菜が大量に生産されている。価格も安い。野菜の種の値段は知らないが、園芸用品店に並ぶ花の種の値段と同じくらいであれば、自給自足のほうが安くつくとは言えない。「後から女の子も来て、なんだか話が弾んでね、野菜まで貰ってきちゃった」「厚かましいなあ、母さんは」「母は強しよ」 楽しげに笑うと、母は虫食いだらけの菜っ葉を洗い始める。さっきの電話のやり取りなど、きれいに忘れてしまったかのように。 最初から父さん抜きの旅行にすればよかったのに。そうすれば、母さんは余計な気を遣ったりしないで、笑っていられた。だから、父さんは嫌いだ。夕方の電話も嫌いだ……。 ホープは力任せに泥を落とした。こんなふうに嫌なことを全部、洗い落としてしまえたらいいのにと思った。 CHAPTER 02  エウリーデ峡谷は観光スポットとしても人気のあるエリアだった。エネルギー·プラント内の見学ルートも整備されており、周辺の景観もコクーン屈指と言われている。 また、プラントを管理するファルシ=クジャタを間近に見ることができるのも、エウリーデの人気を高めていた。ファルシは市民の生活を支える大切な存在だが、実際に目にする機会は意外に少ないのである。 そんなわけで、臨海都市ボーダムを訪れる観光客の大半がエウリーデ峡谷にも足を伸ばす。プラント内の最新設備、周辺の景観、そしてファルシ。その三点セットの集客力は絶大なものだという。 プラントに隣接した広場には土産物屋が軒を連ね、社会科見学の子供たちが集まり、にぎやかな声が絶えることはない。それが一般に知られているエウリーデ峡谷である。だが、この日は違っていた。「映像案内で見たのと全然違う……」 エウリーデに降り立つなり、ホープはつぶやいた。プラント前の広場は封鎖されていた。立ち入り禁止を表すテープが張り巡らされ、武装した兵士が見張りについている。飲食物を売る露店も、風船売りの姿もない。「よほど大きな事故だったのね。観光客より兵隊さんのほうが多いなんて」 多少のトラブルやアクシデントにも動じず、むしろ楽しんでしまうような母だったが、今日ばかりはあまりの物々しさに戸惑いを隠しきれない様子である。「ボーダムの兵隊さんたちも大変ね。もうすぐ花火大会で忙しいでしょうに」「違うよ。あの制服、警備軍じゃなくて、PSICOM……だと思う。向こうにいる人たちは警備軍みたいだけど」「そうなの?」「たぶん。カイの家で見せてもらった写真と同じだから」 大人になったら軍の飛空艇を操縦するのが夢だというカイは、この手のことに詳しかった。カイがこの場にいれば、兵士たちが装備している銃の種類まで教えてくれたに違いない。 そのカイとは、もう三年近く会っていない。親の仕事の関係で引っ越していったのだ。転居先は隣町だから、決して遠方ではないけれども、学校が違ってしまえばどうしても疎遠になる。引っ越した直後こそ、電話やメールのやり取りがあったものの、次第にそれも間遠になった……「あら。あのお店、ボーダムにもあったペットショップじゃない?」 ホープは考えるのをやめて、母の指さす先に目をやった。シャッターの降りた店舗のひとつに、見覚えのあるロゴがあった。「ひなチョコボを売ってたとこだっけ」「そうそう。エウリーデの店も売り切れ寸前だってお店の人が言ってて……。まさか、こんなことになるなんて」 あれは、ボーダムに着いた当日だった。コンドミニアムにチェックインするなり、ショッピングモールを覗きたいと母が言い出したのだ。あのときはエウリーデで事故が起きるなんて思いもしなかった。 ホープたちの横合いを、社会科見学らしい子供たちが駆け抜けていく。いや、どこの学校も今は長期休暇中だから、社会科の授業ではなくて子供向けのイベントの類だろうか。「早く来なさいよ! ほら、そこ遅れてる!」 ああいう仕切りたがりの女の子がクラスに必ず一人はいる。ホープのクラスにもいた。今もいる。仕切りたがりの女の子がいないクラスなんて、あり得ないのかもしれない。ファルシのいないコクーンがあり得ないように。「……でね、自然見学会に行ったんだ」「それって、サンレスの?」「うん」 得意げな声に思わず振り返る。聖府主催の自然見学会のことだ。サンレス水郷はコクーンでは希少な自然環境保全地区だった。生態系の研究を目的として管理されているため、市民の立ち入りは原則として禁止されている。 唯一、立ち入りが許されるのは、聖府主催の自然見学会のときだけだった。年に数回行われる見学会は、個人での参加が認められるケースは少なく、ほとんどが学校など団体単位の参加である。それも抽選制で、申し込んでも外れる確率のほうが高い。 つまり、運の良い子供たちだけがサンレス水郷に立ち入ることができる。さっきの女の子が自慢したのも当然だった。たぶん、カイだって転校先で自慢したに違いないのだ。前の学校で自然見学会に行った、と。「どうしたの、ホープ」 少し先を歩いていた母が立ち止まった。「うん。今、通り過ぎてった子たちがサンレスの話をしてたから。なつかしいなって思ってさ」「そういえばホープの学校も抽選に当たったんだったわね。五年前だったかしら?」「六年前だよ」 カイがいて、エリダがいて。いつも三人一緒だった。サンレス水郷の自然見学会のときにも。通路を走っていく子供たちの後ろ姿に、カイとエリダが重なる。 あのときの「冒険」を、二人は覚えているだろうか? CHAPTER 03  機内に歓声が上がった。眼下に望む湖面は光の欠片をばらまいたように輝いていた。その周辺を彩っているのは、濃淡さまざまの緑である。サンレス水郷は、居住区に隣接するエリアとしては最も広大な自然林を有する。「あれがシェーラ湖?」「ねえねえ、あっちの大きな木はなに?」「あれって山?」 興奮した子供たちの声は、飛空艇の窓が割れるのではないかと危ぶまれるほどやかましい。「はいはい、静かにして!」 それを上回る音量で、教師の声が響き渡った。勤続十年を超える中堅ともなれば、この程度の騒ぎに動じたりはしない。目を白黒させているのは、飛空艇のスタッフだけだった。 この飛空艇は、本来ならば、高額な運賃を当然のように支払える裕福な客のものである。つまり、スタッフが日常的に接しているのは、聖府の役人や企業の重役といった人々ばかり、子供の世話は守備範囲外だった。 しかし、環境保全地区という特殊なエリアへのアクセスということもあって、自然見学会にはこうした最新鋭の民間機がチャーターされる。その結果、スタッフは年に数回とはいえ、不慣れな勤務に駆り出されることになるのだった。 飛空艇は少しずつ速度を落としながら、シェーラ湖へと近づいていく。窓いっぱいに広がる 湖面に、またも子供たちが歓声を上げた。が、手を叩く音と「はい注目!」という教師の声とがたちまちそれらを鎮めた。「飛空艇はもうすぐ着陸します。でも、シェーラ湖畔は発着場じゃないので、仮の設備しかありません。走って飛び出したりしないように。わかった人は手を挙げて」 はーい、という声とともに数十本の手が一斉に挙がった。と、隣から「すっげえ」という感嘆の声が聞こえた。カイだ。ホープは手を挙げたまま小声で聞き返した。「何がすごいの?」「発着場じゃないとこに着陸するのって、難しいんだぜ」「そうなんだ」「それも小型機じゃなくて、こんだけデカい飛空艇だろ? さっすが特別機のパイロットだよなぁ」 大人になったら軍のパイロットになりたいというカイと違って、ホープにはその辺りのことが今ひとつピンとこない。それでも、カイが「すごい」というからには、本当にすごいパイロットなのだろう。「何、二人でしゃべってんのよ」 カイの隣から身を乗り出してきたのは、エリダだった。「声、デカい」 カイが顔をしかめた。エリダはクラスで一番歌が得意だったけれども、声の大きさもクラスで一番だった。 ホープとカイ、エリダの三人が仲良くなったきっかけは、入学式の席が三人並びだったことだった。式の席順はそのまま教室での席順でもあったから、三人グループで行動するのが当たり前のようになった。 趣味や好み、性格などは全く異なる三人だったが、低学年での友人関係は内面的な近さよりも物理的な近さが優先するものである。互いの家も近所だったから、放課後も一緒だった。ホープとエリダはひとりっ子だったけれども、カイには三歳年下の弟がいた。その弟のハルを入れて四人で遊ぶこともあった。 進級時にクラス替えが行われたが、このときも三人揃って同じクラスになった。さすがに席は別々になったものの、今日のようなイベントの際には必ず三人グループを作る。「この飛空艇のパイロット、すごいんだって」 ホープは身を乗り出すようにして、エリダに耳打ちをした。「すごいって何が?」 首を傾げるエリダに、カイが事細かな解説をしようとしたときだった。「ほら、そこ! おしゃべりをやめて、手を下ろしなさい」 気がつくと、手を挙げたままなのはホープたち三人だけである。あわてて手を下ろすと、皆がどっと笑った。「もう! カイとホープのせいなんだからね」  エリダがふくれっ面を作った直後、窓の外の景色が止まった。着陸時の前のめりになる感覚どころか、ほんのわずかな揺れさえ感じなかった。これなら、飛空艇に詳しくないホープでも、パイロットの腕がわかる。「な、すげえだろ?」 カイは自分のことのように得意げだった。 シェーラ湖畔に降り立った子供たちがまず目を向けたのは、足許だった。踏みしめる感触がこれまでに経験のないものだったからである。パルムポルムでは、道といえばどこも舗装されている。公園であっても土が露出している場所は少ない。 靴底から伝わる不思議な感触に驚き、その後に周囲の光景に驚く。草や木は珍しくもないが、縁石やプランターで区切られることなく、どこまでも続く緑を見る機会は滅多にない。「はい、注目! 自然見学会でのお約束は昨日も説明しましたね。覚えてる人!」 一斉に手が上がった。「じゃあ、まず三つの『ない』をみんなで言ってみましょう」 走らない、ふざけない、押し合わない、と声が揃う。「よくできました。ここは街中と違って、滑りやすいから走ってはいけません。それから、ここの魔物はおとなしいけど、大きな声を出したり騒いだりすると、驚いて襲ってくるかもしれません。だから、静かに見学すること」  自然見学会への参加が決まったときから、繰り返し言い聞かされてきた注意事項だった。ただ、「静かに」と言われても無理なことくらい、子供たち自身も、大人の側もよくわかっていた だから、見学会の前日に軍が予め危険な魔物を見学コースとは別エリアに追い込んでおく。比較的おとなしい性質の魔物はそのままエリア内に残してあるが、見学者の通り道には近づけないように誘導されている。 それら一連の作業は、単純に駆除するよりもずっと手間がかかるという。だが、サンレスでは魔物の生態も研究されているために、駆除はできない。そうした事情をホープは父から聞いていた。「そして、最後に大切なこと。ここは谷間とか崖とかが多くて、本当は危ない場所です。今日は特別に渡し板を置いたり、ロープを張ったりしてるけど、それも見学コースだけです。だから、絶対にコースから外れないように。案内してくださる研究員さんの注意をよく聞いてね。わかりましたか?」 皆と同じように手を挙げながら、ホープはこれから向かうコースの先に目をやった。鬱蒼とした木々の向こうに、切り立った崖やごつごつした岩肌が剥き出しになっているのが見える。「本当は危ない場所」を延々歩くことを思うと、気が重かった。 予定では、シェーラ湖畔から虹降り峠へ向かい、林道を歩いて折り返してくることになっていた。湖畔に戻った後は昼食と自由時間になる。見学コースを歩くのは希望者だけにして、歩きたくない人はここで待っていられたらいいのにと思う。  シェーラ湖畔は色とりどりの花が咲く美しい場所だった。近くにはとてつもなく大きな木があり、その木陰は見るからに涼しげで快さそうである。 ホープはもともと外で遊ぶよりも、家の中でゲームをしたり、カイの家で軍用機だの銃器だのの写真集を見せてもらったりするほうが好きだった。カイとエリダは外遊びが好きだから、家の中で遊ぶのは雨の日か、ハルの具合が悪くて外に出られないときだけだったけれども。「それじゃ、ここからはクラスごとに分かれます。コースは狭いから一列になって!」 一クラスに一人、案内役の研究員がついて先導を務めてくれた。ただ、教師と違って大きな声を出すことに慣れていないのだろう、研究員たちは小型の拡声器を手にしている。 子供たちの列が少しずつ進んでいく。百人に満たない人数とはいえ、一列になるとそれなりの長さである。「きれいなお花ね」 エリダが薄紅色の花に手を伸ばす。ホープはあわてて止めた。「だめだよ。植物に触ったり、勝手に取ったりしちゃだめって書いてあったよ。触ると、かぶれるものもあるからって」「わかってるってば。写真を撮ろうとしただけよ」 エリダはそう言って、ポケットからトイカメラを取り出した。「花の写真か……。母さん、喜ぶかな」 ホープも自分のトイカメラを取り出した。データ転送機能のついたトイカメラは、こうしたイベントの際の必需品だった。一般向けのカメラに比べて、データ容量は比べものにならないほど少ないものの、容量いっぱいまで撮影し終わると、自動的にデータが最寄りの端末に転送され、その日のうちに紙焼きの写真となって自宅に届けられる。 本体そのものは使い捨ての安価なものだから、物を落としたり壊したりしがちな子供にはうってつけだった。データ容量の少なさも、一日で使い切ること前提であれば、むしろちょうどいい さっそくホープは薄紅色の花にカメラを向けた。その隣に咲く白い花の写真も撮った。薄い花弁がみるみる風に散っていく。その様子もカメラに収めた。うまく写っているといいな、と思う 湖畔ばかりではなく、至る所に市街地では目にすることのない珍しい花が咲いていた。花だけではない。遠目に見る魔物でさえ、サンレス水郷のものはどこか愛嬌があり、可愛らしい。 ホープは夢中でシャッターを切った。そのせいだろうか、峠に向かう上り坂もさほど苦にならなかった。「ねえ。なんだか風のにおいが変じゃない?」 エリダに言われるまでもなく、ホープもそれが気になっていた。湖畔を離れて、峠道に差し掛かったあたりからだ。何のにおいだろう。「ほんとだ。薬臭え」 鼻を鳴らしていたカイが顔をしかめる。「薬っていうか、ハーブ?」「そうかなあ。おじいちゃんが飲んでたお酒みたい」  ホープたちのやり取りが聞こえたのか、前を歩いていた女性研究員が振り返って笑った。「緑のにおい。土と草のにおいよ」 ホープたちだけでなく、その場にいた子供たちは皆、顔を見合わせる。市街地に土がないわけではない。花壇もあれば、鉢植えの植物もある。けれども、こんなにおいを嗅いだことはなかった「加工されたり、精製されたりしていない土は、こういうにおいがするの。その土で育った植物もね」 言われてみれば、花のにおいも違う。違うというよりも強い。写真を撮ろうと、ほんの少し近寄っただけなのに、むせかえりそうな甘ったるいにおいがして驚いた。それも土のせいなのだろうか。「あっ! 魔物がいる!」 誰かが叫んだ。見れば、谷間を挟んだ対岸に赤っぽい色をしたものがうごめいている。半透明で、ぐにゃぐにゃしていて、なんだか変な魔物だ。「ベジタプリン。あれの改良種は食用にされているのよ」 一斉に声が上がった。半分は驚き、半分は疑いの声だった。「何に加工されるかは、言わないでおくわね。気持ち悪くて食べられない、なんて子が出たら困るから」  女性研究員はいたずらっぽく片目をつぶった。下手をすれば見学そっちのけで、ベジタプリンがどんな食材になるのかを議論し合うところだったが、その前に虹降り峠に着いてしまった。 もしかしたら、研究員はそれも計算の上で食用ベジタプリンの話を出したのかもしれない。 峠の上に立つと、その景色の見事さに目を奪われて、誰もが魔物の話など忘れてしまった。空にはその名のとおり虹が架かり、雲の切れ間から幾筋もの光が差していた。 誰かがカメラのことを思い出したのだろう、シャッターを切る音がした。それが合図だった。皆、大急ぎで自分のカメラを取り出し、目の前の景色をファインダーに収めるのに熱中し始めた。「この先にも、きれいな景色はありますからね。データ容量を考えてね」 その言葉に、ぴたりとシャッターの音が止んだ。ホープもあわてて手を止める。うっかり容量をすべて使い切ってしまうところだった。「こんなことなら、カメラ、もうひとつ持ってくればよかった」 エリダが悔しそうにつぶやく。エリダだけでなく、この場にいる誰もが同じことを考えているに違いなかった。しかし、カメラの持ち込みは一人一台まで、と規則で決められている。「はい、みなさん、こっちを向いてください」 研究員が拡声器を使って説明を始めた。写真撮影が一段落するのを待っていてくれたらしい。「みなさんも知っているとおり、コクーンのお天気はファルシが管理しています。お天気のスケジュールは、原則として人間に公開されることはありません」 ただし例外はある。嵐や雷、強風といった悪天候の際にはファルシから聖府に通告があり、聖府はそれに基づき当該地区の住民に警報を発令する。このファルシの通告による警報は百パーセント確実で、外れることがない。 これに対して、いわゆる「天気予報」は、人間が気象データを元に割り出したものである。かなりの精度ではあるが、あくまで「予想」であって、稀に外れることもあった。「ここサンレスのお天気は、コクーン全体のお天気と違って、このエリア専任のファルシが管理しています。なぜかというと、雨や風といったお天気が植物や魔物に及ぼす影響を研究するためなんです」 はーい、と手が挙がった。エリダだ。「雨が嫌いな魔物っているんですか?」 エリダは雨が大嫌いだった。それで、そんな疑問が浮かんだのだろう。「もちろん、います。逆に雨が好きな魔物もいます」 エリダがげえっという顔をする。訊くんじゃなかった、と言わんばかりの様子に、ホープとカイは揃って笑いを噛み殺した。「今日の見学コースには入ってないけど、この崖の向こうには、雨の好きな魔物と嫌いな魔物の両方が生息する渓谷があります。そこでは降雨コントロール端末を使って、雨を降ったり止んだりさせて、魔物の様子を調べています。その影響もあって、この峠からは虹がよく見えるんです」 空気中の水分に光が反射して虹ができるって父さんが言ってたっけ、とホープは独り言ちる。そうだ、食用ベジタプリンのことも父さんに訊こう、父さんなら絶対知ってる、と思った。 「じゃあ、そろそろ次に進みましょう。この先は、〝木洩れ日の林道〝と呼ばれる場所で、強い陽射しを嫌う珍しい植物がたくさん生えています。ただ、滑りやすいから、写真を撮るときには注意してくださいね」 以上です、と言って研究員は拡声器のスイッチを切った。 再び一列になって見学コースを進んだ。湖畔から虹降り峠に至る道が上り坂だったのに対して、今度はゆるやかな下りである。 しかし、歩きにくさで言えば、峠までの道の比ではなかった。湿った草と泥がこんなにも滑りやすいということを初めて知った。石ひとつない平坦な場所だというのに、何度も転びそうになった。転べば下はぬかるみである。見学会の案内状に「歩きやすい靴と、汚れてもいい衣服で」とあったのは、こういう意味だったのだと納得がいった。 それでも、トイカメラの容量が残っている間はまだ良かった。淡い光を放つ岩やガラス細工のように透き通った草、そういった珍しいものをファインダーに収めるときだけは疲れを忘れていられた。 林道を折り返した直後、ホープは最後の一枚を撮り終えた。データ転送を示す表示が点滅し、ほどなくして消えた。空き箱同然になった本体をポケットに突っ込んでしまうと、支えが外れたような心許なさを覚えた。 同じ道を引き返しているはずなのに、来たときよりも歩きにくく感じた。にわかに足が重くなった。 「もうやだ。早く帰りたい」 ぼやきが漏れる。ほんとだよね、とエリダが息を切らしながらうなずいた。「でも、がんばろ。シェーラ湖に戻ったら自由時間だもん」 一人だけ元気なのがカイだった。どうやら、転んでも気にしないことに決めたらしい。見れば、カイの手のひらも服もすっかり泥だらけになっている。「カイ、少しは気をつけなよ。転んでケガでもしたら……」 平気平気、と答えるそばからカイは尻餅をついた。が、すぐに立ち上がって飛び跳ねるようにして歩いていく。「本人が平気って言ってるんだから、きっと平気なのよ」 エリダが呆れたと言わんばかりの顔で肩をすくめた。 昼食を取り、少し休むと、すっかり疲れは消えた。一歩だって動きたくないと思って湖畔に戻ってきたのが嘘のようだった。「何して遊ぶ? まだ時間たっぷりあるよ」 走り回っても、大声で騒いでも、ここなら叱られることはない。「なあ、あのでっかい木に登ってみようぜ。あの上から写真、撮ってみたいんだ」「カイ、まだ撮ってなかったの? いつもだったら、あっという間に容量いっぱい撮っちゃうくせに」  エリダが呆れたように叫んだ。じゃなくて、とホープは二人の間に割って入った。「木とか岩に登るのは禁止だよ。あんな高い木、落ちたら死んじゃうよ」 カイもエリダも、好きなことに熱中すると他のことが目に入らなくなる。そんな二人を止めるのは、いつもホープの役目だった。「それに、どうやって登るのさ? 絶対、無理だよ」「けど、約束したんだ。ハルに。すっげえ写真撮ってくるって」 そういえば、カイの弟のハルもこの見学会に来たがっていた。でも、ハルは学年が違うどころか、まだ学校に上がってもいない。カイは一生懸命ハルをなだめ、どうにか納得させた。その条件が「すっげえ写真」だったに違いない。「だったら、さっきの虹降り峠だって……」「撮ったよ。けど、なんかイマイチなんだよなぁ。魔物の写真も撮ったけど、すっげえっていうのとは違う気がする。だから、最後の一枚はあの木の上にしようと思ったんだ」「でも、あの木は無理だよ」 やってみなきゃわかんないだろ、とポケットに手を入れたカイだったが、その目に訝しげな色が浮かぶ。「どうしたの?」 カイは答えずに反対側のポケットを探った。その動作に、ホープははっとした。「もしかして、カメラ落とした?」  上着のポケットに手荷物にと、捜せる場所はすべて捜した後、カイは困ったような顔をした。それだけで、ホープにもエリダにも事情が飲み込めた。「その辺に落ちてるよ、きっと」 だよね、とうなずき合いながら、三人は近くを捜した。だが、見つからない。「林道で落としたんじゃないの? カイってば、転んでばっかりいたもの」 エリダが泥だらけの膝を指さす。「林道じゃないよ。帰りに峠で撮ろうかどうしようか迷ったから。確かに、そこまではあったんだ」 だとしたら、虹降り峠と湖畔の間を捜せばいい。問題は、峠に向かう道はもう通れないことだった。湖畔に戻った時点で、見学コースへの立ち入りは禁止されてしまった。生態系への影響を最小限に止めるためだという。「ホープのカメラって、まだ容量残ってる?」 いつもなら、しょうがないなと笑ってカメラを貸してやるところだった。カイもエリダもせっかちで、ホープの二倍くらいの速さでデータ容量を使い切ってしまうのだ。もう少し考えて撮ればいいのにとホープが言えば、「ホープは考えすぎ!」と二人は口を揃える。そして、終わりのほうの数枚は三人共用カメラと化すのだ。 ところが、今日は違った。「ごめん。もうデータ転送しちゃってる」  サンレス水郷の見事な景色を前にして、「考えて撮る」などということは無理な話である。むしろ、カイが最後の一枚分を残して戻ってきたほうが不思議なほどだった。「私も。虹降り峠で全部使っちゃった」 そっか、とカイは大きなため息をついた。「しょうがないか……」「私の写真、ハルにも見せてあげるから」 エリダが慰めるように言う。「ホープの写真も見せてあげたら、それでいいんじゃない。二人分だもん。ハルも喜ぶよ」 ただ、紙焼きの写真が届くのは今日の夜になる。それをハルに見せるとしたら、明日、学校が終わってからだ。 不意にハルの顔が浮かんだ。放課後は四人で遊ぶことが多かったから、一人だけ見学会に行けないのが納得いかないようだった。どうして僕だけ行けないの、と何度も言った。 ハル、がっかりするだろうな……。 その様子を思い浮かべたら、もうだめだった。黙っていられなくなった。「捜しに行こうよ」 カイとエリダが驚きの表情を浮かべる。「虹降り峠までなら、そんなに遠くない。自由時間が終わるまでに捜せると思う」「でも、見学コースにはもう入っちゃいけないのよ」 「こっそり行けば大丈夫だよ」 カイとエリダが顔を見合わせる。ホープがこんなことを言い出すとは思わなかったのだろう。「どんなに小さな約束でも破るのは良くないって、父さんが言ってた」 自分が忘れてる約束に限って、相手はよく覚えてるものだ、とも言った。 カイにとっては「しょうがない」の一言で片づけられることでも、ハルにとっては今日一日、わくわくしながら待ち続けた約束に違いないのだ。「捜しに行こう」 もう一度、強く言う。歳は違っても、ハルは自分にとって大切な遊び仲間だった。それはエリダも同じだったのだろう。「そうよね。私もハルをがっかりさせたくない」 これで決まりだった。 CHAPTER 04  見学コースの入り口周辺では、研究員が後片付けを始めていて近づけなかった。それで、脇道から迂回してコースに入ることにした。 本当にそれが脇道だったのかはわからない。ただ、そう見えたから入った。「こっちでいいんだよね?」 エリダが不安そうに振り返った。「方角は合ってる。こっちにまっすぐ進めば、見学コースに出られるはず……」 湖畔からほんの少し離れただけなのに、皆の騒ぐ声がひどく遠い。この道じゃなかったのかもしれない、とホープは少しだけ後悔した。「帰りは、ちゃんとコースを通って戻ろうね」「出口で見つかったら、怒られるかもしれないよ」「平気平気。もう片づけなんて終わっちゃってるって」「でも、先生が見張ってるかも」 どうでもいいことを大声でしゃべらずにいられないのは、辺りが静かすぎるせいだった。大勢で通ったときには何とも思わなかったのに、三人になると静けさが怖い。「ねえ、見て。果物みたいなのが!」 エリダが明るい声で指さした。黄みがかった赤い実をいくつもつけた枝が、重たそうに撓んでいる。店先で目にするどんな果物よりも大きな実だった。 「食べられるのかな?」「勝手に取っちゃだめだよ。エリダは何でも手を出すんだから」「そんなことないもん」「気持ちはわかるけどね。こんなにきれいな色してるし」「だから、そんなことないってば!」 エリダがむくれたときだった。あのさ、とカイが口を挟んでくる。「これってさ、あの色と似てないか? 食べられるっていう、あれ」 言われてホープも気づく。虹降り峠の近くで見た魔物。確かにこんな色をしていた。そういえば、見学コースから少し離れた場所にいたっけ……。 不意に地面がせり上がった。三人の前に赤い壁が現れる。魔物だった。赤い半透明の身体が膨れあがる。ベジタプリン、という名前が浮かんだときには、足が勝手に走り出していた。「やだ! 追いかけてくる!」 エリダが泣きそうな声で叫ぶ。三人の中で一番足の遅いホープには、後ろを振り返るだけの余裕がない。ただただ走った。ひたすら足を動かした。二人に置いていかれたらおしまいだ。 息の続く限り走った。どこをどう通って逃げたのかはわからない。身を隠せる岩場があった。その陰へと飛び込んだ。心臓が口から飛び出してきそうなほど、激しく脈打っている。「よかった……。来て……ない」 岩陰から少しだけ顔を覗かせたカイが、安堵したように座り込む。ホープの足からも力が抜けた。 これ以上走れと言われても、絶対に無理だ。 三人はしばらく、その場にうずくまって荒い息をついていた。今になって肌が粟立つ思いだった。林道のように滑りやすい道だったら。もしも何かにつまずいていたら。三人揃って逃げおおせたのは本当に幸運だった。「ねえ、ここって、どこ?」 湖畔と虹降り峠を結ぶ見学コースを目指して歩いていたはずだった。さっきまでは、たとえ道を間違えていても引き返せばいいと思っていた。しかし。「なんだか、景色が……違う」 鬱陶しいほどに繁っていた木がいつの間にか途切れていた。剥き出しの岩肌が壁のように道の両脇に聳え立っている。足許にも草は少なく、どこか荒れ果てた印象を与える場所だった。「私たち、どっちから来たんだっけ?」 無我夢中で岩陰に飛び込んだせいか、自分たちが走ってきた方角がわからなくなってしまった。右も左も、似たような岩と崖とが続いている。「虹が出ているほうが峠だと思うけど……」 崖に遮られて、虹どころか空もろくに見えなかった。「こっちじゃない?」「違うよ。こっちだよ」 カイとエリダが全く逆の方向を指さした。どちらも正解のようにも思え、またどちらも違う気がした。つまり、完全に方向を見失ってしまったのだ。「とにかく歩こう」「でも、迷子になったときは、下手に動いちゃいけないのよ」「他の場所ならそうかもしれないけど。さっきみたいに魔物が出たら? ここじゃ、うまく走れないよ」 さっきと違って、突起物の多い道だった。足の速い魔物に襲われたら、ひとたまりもない。「見通しのいい場所に出れば、湖が見えるよ。そうすれば、帰り道だってわかる」「だよな。ちょっとくらい遠回りになったって、湖が見えればなんとかなる」 カイがホープの味方をすると、エリダもしぶしぶうなずいた。「そうだ、ちょっと待って」 なるべく尖った石を拾うと、ホープは岩肌に×印をつけた。「右に進んでみて、もし間違ってたら、ここまで引き返してくればいいんだよ。で、次は左に行ってみる」「すっげえ。ホープ、頭いい!」「父さんが教えてくれたんだ。知らない場所で迷ったら、出発点に戻れるようにしておけって」「じゃあ、ホープのお父さん、頭いい」 そう言って、エリダが笑った。自分が褒められるよりもホープにはそのほうがうれしかった。「急ごう。出発の時間になっちゃうよ」  うなずき合い、歩き出す。高い崖に挟まれた道は、昼間だというのに薄暗い。今度は口をつぐんだまま歩いた。魔物が自分たちの声を聞きつけたらという不安が、心細さを抑え込んだ。 誰が言い出したでもなく、三人は手を繋いだ。知らない道を歩く不安も、しっかりと手を握り合っていれば耐えられた。 岩肌には、ところどころ青く光る場所があった。迷子になったときでなければ、その淡い光を美しいと感じたかもしれない。今はその光すらも、どこか不吉なものに思えてならなかった。空気も妙に湿っぽく、生ぬるい風が吹いている。 どれくらい歩いただろうか。相変わらず、岩肌の壁は続いていたが、行く手に機械のようなものが見えた。 ホープたちは目でうなずき合うと、駆け出した。データ転送や通話のできる端末かもしれないと思ったのだ。家庭用のものと同じなら、アクセスして先生たちに連絡を取ればいい。 しかし、機械を間近に見ると、家庭用のものとはだいぶ違っていた。どうやら子供には扱えそうにない。「適当にいじってみようか」「だめだよ、もしも壊したりしたら……」 ホープが止めるより先に、エリダの指がパネルを叩いていた。パネル全体が明るくなった。「ほら。うまくいきそうじゃない」 エリダが得意げに言ったところで、再びパネルの明かりが消えて機械は沈黙した。 「あれ? やっぱダメ? じゃあ、ママに教えてもらったやり方で……」 エリダが握り拳を作る。ホープとカイは両側からあわててエリダの手を押さえた。二人ともエリダの「ママのやり方」は知っていた。「それ、絶対壊れるから!」「ブッ叩いて動かすなんて、エリダのママだけだって!」 口々に言われて、エリダは不満そうに拳を引っ込めた。「だったら、どうするのよ」「もう少し歩いてみようよ。機械があるってことは、近くに人がいるってことだよ」 相変わらずの悪路だったが、それでも近くに誰かいるかもしれないという期待が力を与えた。段差を飛び越え、岩を跨ぎ越し、ひたすら進む。「ねえ、これって何だと思う?」 トンネル状の岩をくぐり抜けたときだった。ちょうどホープたちの頭の高さくらいに、光る球体が浮いている。薄い水色で、大人の頭より一回り大きい。見た目には水を集めて作ったボールのようで、それが空中でゆらゆらと揺れている。「魔物じゃないのは確かよね。襲ってこないもの」「だから、触っちゃだめだってば!」 ホープもカイも間に合わなかった。エリダの手のひらが光る球体に触れる。不意に風が冷たくなり、空が暗くなった。ぽつり、ぽつりと水滴が落ちてきたかと思うと、たちまち激しい雨に変わった。それで球体の謎が解けた。降雨コントロール端末、だ。 三人はあわててトンネル状になった岩のところへ引き返す。雨宿りできるのは、そこしかない。「これで帰る方向がわかったじゃない。降雨ナントカがあるのは虹降り峠の向こうって言ってたでしょ。だから、この崖の向こうが虹降り峠よ」「いくら方向がわかったって、この雨、どうすんだよ?」「触ったら降り出したんだから、もういっぺん触れば止むに決まってるじゃない」「そんなのわかってるって。誰が止めに行くんだって言ってんだよ」「カイが行ってよ。どうせ服、泥だらけなんだし」「勝手なこと言うな! 雨降らせたのはエリダだろ!」 口げんかを始めた二人を止めようとして、ホープははっとした。思い出したのだ。虹降り峠で女性研究員が言った言葉を。『逆に雨が好きな魔物もいます』 そして、ここはその魔物の生態を研究するための場所だ……。 一刻も早く雨を止めなければ。ホープは意を決して岩の下から飛び出した。が、そこまでだった。足が止まる。ホープはそのままじりじりと後ずさった。 目の前にいたのは、黄色いカエルそっくりの魔物だった。その後ろに色違いの魔物が数頭。水掻きのついた前肢、その先に尖った爪がある。あれで引っかかれたらと思っただけで、全身に鳥肌が立った。 足がもつれる。尻餅をついたまま、後ずさる。逃げなければと思うのに、立ち上がることすらできない。 と、背後ですさまじい悲鳴が上がった。魔物に気づいたエリダだった。クラスで一番声が大きいエリダの叫び声。これで魔物が驚いて逃げてくれたらいいのに、とホープは頭の片隅で期待した。 ほんの一瞬だけ、魔物の動きが止まった。が、子供の悲鳴程度で逃げ出す魔物などいるはずもない。再び魔物が動き出す。大きく開いた口に鋭い歯が見えた。噛まれる、と思った。 ホープはぎゅっと目をつぶった。本能的に身体を丸める。しかし、鋭い歯や尖った爪の一撃はやって来なかった。 ホープは恐る恐る目を開けた。雨は上がっていた。だからだろう、魔物たちがゆっくりと引き上げていく。誰かが降雨コントロール端末を操作して雨を止めてくれたのだ。「ここの天気を管理してるのはファルシ……」 もしかして、ファルシが助けてくれたのだろうか。エリダの悲鳴を聞きつけて。「あっ! 飛空艇だ!」 カイが叫んだ。道の向こう、崖の切れ間から見えているのは、紛れもなくあの飛空艇だった。ホープたちを捜してくれているのか、ホバリングのまま空中に留まっている。飛空艇もファルシが呼んでくれたのかもしれない。  おーい、と大きく両手を振りながら、カイが駆け出していく。「立てる?」 エリダが差し出してくれた手につかまって立ち上がる。辺りを見回してみたが、研究員の姿も、ファルシらしきものの姿も見えない。「ホープ、早く!」 うなずいて走り出す。カイとエリダの後を追って走りながら、ホープも飛空艇に向かって両手を振った。 飛空艇に回収された後、ホープたち三人は別室に呼ばれて事情を訊かれた。予測済みではあったけれども、担任教師の叱責と説教はサンレスで遭遇した魔物並みの脅威だった。 その「脅威」から解放された後、カイの手に使いかけのトイカメラが戻された。聞けば、研究員が片付けの途中で拾って飛空艇まで届けてくれたのだという。つまり、わざわざ捜しに戻らなくても、自由時間が終わって飛空艇に乗り込めば、それで良かったのだ。 捜しに行こうなんて言わなきゃよかったな、とホープは後悔した。そんな思いを察してくれたのか、カイもエリダもホープを責めようとはしなかった。「先生、雨を止めて助けてくれたのって、やっぱりファルシなんですか?」 どうやらエリダも同じことを考えていたらしい。あんなにタイミングよく雨を止めるなんて、ファルシにしかできないはずだ、と。 「たぶん、研究員の誰かが遠隔操作してくれたんだと思うけど……。もしかしたら、降雨装置の誤作動だと判断したファルシが雨を止めたのかもしれないわね」 ただ、飛空艇を呼んだのはファルシではなく、エリダが勝手にいじったパネルのせいだった。動作不良に気づいた研究員が端末の位置を特定し、何者かが「慈雨の渓谷」に侵入していることを突き止めた。 そこへ、集合時間になっても子供が三人戻ってこないと報告が入り、渓谷への侵入者の正体が判明した。研究員の誘導で飛空艇は渓谷へと向かい、ホープたちを回収した、というわけである。「あの場所は本来、飛空艇で近づくには難しい地形なんですって。機長さんの腕が良くなかったら、あなたたちは今頃はまだ、渓谷内を迷っていたかもしれないわ。後で機長さんにお礼を言いに行きましょうね」 そして、ようやくホープたちは席に戻ることを許された。「カイ、あの……」 余計なことを言い出してごめん、とホープが謝ろうとしたときだった。「すっげえ、おもしろかったよな」 肩を叩いてカイが笑った。うん、とホープもうなずいて笑う。「カイ! カメラ出して!」 エリダが窓の外を指さして叫んだ。すでに夕刻だった。薄闇の中にいくつもの光の点が散らばっている。サンレス水郷の手前にある観光艇発着場の誘導灯だった。 カイが大急ぎでシャッターを切る。データ容量を使い切り、転送を示す表示が点滅を始める。上空から望むサンレス水郷周辺の夜景が、ハルと約束した最後の一枚となった。 CHAPTER 05  どんな小さな約束でも破るのは良くない、か……。 ホープは苦い思いで記憶の中の言葉を噛み締める。あの言葉を信じていた。ずっと。なのに、それを教えた父自身は忘れてしまっているのだろう。 いや、今も父はどんな小さな約束でも違えずにいるのかもしれない。ただ、その相手がホープや母ではないだけで。 仕事となれば夜中であろうが早朝であろうが、お構いなしに家を飛び出していく父である。食事さえ忘れて書斎に籠もっていることもある。今の父にとって、何よりも大切で、何よりも優先すべきものは仕事なのだ。 もう父は家族の約束など守ろうとはしないし、家族の言葉に耳を傾けることもない。ホープのほうから最後に話しかけたのはいつだっただろうか。ずいぶん前の話だ。何を話そうとしたのか、それすら忘れてしまった。 ただ、ホープの話を遮って、父は「すまない。また後で聞くから」と出ていってしまった。あのときのやりきれなさだけは、昨日のことのように覚えている。一人、取り残されて、ようやく気づいた。何を期待しても無駄だということに。「あっちもこっちも閉鎖閉鎖だったけど、ファルシ=クジャタだけでも見られて良かったわ」 母の言葉で物思いから覚めた。エネルギー·プラント内のファルシを見学して、出口へ向かう途中だった。考えていたことを悟られたくなくて、ホープはさりげなく視線を外して答えた。 「なんだか、呆気なかったよね」「プラントの半分以上が通行禁止だったんだもの。仕方がないわ」 エウリーデの事故は報道されていた以上に、深刻なものだったらしい。現地に来てみてよくわかった。「サンレスのファルシも、あんな感じだったのかな」「ああ、自然見学会の。ファルシには会わなかったんだった?」「全然。気候を管理してるっていう説明はあったけどね。会えたのは魔物だけだったよ」「そういえば、そうだったわね。魔物に襲われて熱を出して……あのときは本当にあわてたわ」 サンレス水郷内で二度も魔物に遭遇したのがショックだったのだろう。あの日、帰りの飛空艇の中で、ホープは急に発熱し、パルムポルムに着陸すると同時に救急病院に担ぎ込まれた。 そのせいで、飛空艇の機長にはお礼を言えないままだった。カイとエリダから、そのときの話を聞かせてもらったのは、三日も寝込んだ後である。『すっげえ、おもしろい人だったよ。鳥の巣みたいな頭のおっさんでさ』『少し前に男の子が生まれたばかりって言ってたわ』『将来はパイロットになりたいって言ったら、がんばれよって』 それからしばらくの間、カイはその機長のことばかり話していた。あの一件で、カイの将来の夢は揺るぎないものになったのだ。そんなカイが、ホープには少しばかりうらやましかった。 エリダもまた、カイと同じく確かな夢を持っていた。声楽家になりたいからと、エリダが音楽科のある女子校に編入したのは、一年前の話である。 大人になったら父さんみたいになりたいって思ってたこともあったっけ……。 今では、なりたくない大人の代表格が父だ。どんなに仕事ができても、身近にいる人々を蔑ろにするような大人にはなりたくないと思う。ほんのささいな約束すら守れないような大人にだけは。「……なのね」「え? 何? ごめん、聞いてなかった」 あわてて聞き返す。もう考えるのはやめよう。人の話もまともに聞かないなんて、父さんと同じじゃないか……。「事故でね、小さい男の子が大けがをしたんですって。今、すれ違った人たちが話してたのよ。付き添ってたお父さんが気の毒で、見てられなかったって」「そうなんだ」「命に別状がなければいいんだけど。親より先に子供が死ぬくらい、不幸なことはないから……」 親が先だろうが、子が先だろうが、家族が死ぬのは同じくらい不幸な出来事だ。残された者にとっては。 けれども、ホープはそれを言わなかった。なんとなく口にできなかったのだ。「ねえ、ホープ。父さんのこと、怒ってる?」「別に」「不器用な人なのよ。要領よく、適当に済ませるってことができない人だから」 母の顔を見ているうちに、心の中でふっと何かが緩んだ。「怒ってないよ。花火大会には間に合わせるんだよね。だったら、それでいいんじゃない。今回のメインは花火なんだからさ」 母がうれしそうに微笑んだ。花火大会の夜には、ちょっとくらい父さんと話してみようか、と思った。 どうせ、父さんは「最近どうだ?」みたいなことしか言わないだろうけど。母さんがこんなふうに笑っていられるなら、それでもいい……。 目の前を緊張した面持ちの兵士たちが横切った。もう事故の処理は終わったはずなのに。それに、プラントに常駐しているのは警備軍のはずだ。なぜPSICOMが出てくるのだろう? 何か、ざわざわしたいやな感触が足許から這い上ってくるようだった。母もまた、不安そうにプラント前の広場に目をやっている。ホープは努めて明るい声を出す。「ボーダムに戻ろうよ。もうファルシはいいや」 まとわりついてくる何かを振り払いたい思いは同じだったのか、母もまた明るく答えた。「そうね、ショッピングモールに行きましょうよ」「また?」 軍もファルシもどうでもいい。ただ、今は楽しいことだけ考えていたかった。  そうだ、パルムポルムに帰ったら、カイとエリダに連絡してみようか。エウリーデで兵士を大勢見たと言ったら、カイは身を乗り出してくるに違いない。エリダはプラントよりも花火大会の話を聞きたがるだろう。 三年ぶりだな、とホープは二人の友に思いを馳せる。 長い休暇はまだ始まったばかりだった。  第三話 「TREASURE(家族)」 CHAPTER 01  ――まさかなぁ、こんな大ごとになっちまうなんてな。 あっちもこっちも兵隊だらけで、落ち着きゃしねえ。おまえと初めて顔合わせたときなんざ、平和そのものだったよな。ええっと……あれから八日か。たった八日間で、いっぺんにいろんなことが起きちまってよ。もう何が何だか、だ。 やれやれ。父ちゃん、すっかりお手上げだ。なあ、おまえだってそうだろ――「父ちゃん、あれほしい!」 繋いだ手を強く引っ張られて、サッズは思わず足を止めた。欲しいものを親にねだるとき、子供というものは呆れるほど力が強くなったり、速く走ったりする。息子のドッジはまだ六歳だったが、今のは大人のサッズを引き倒さんばかりの勢いだった。「おう。帰りに買おうな」 サッズはドッジを連れて、エウリーデ峡谷を訪れていた。どこで聞き覚えてきたのか、「ファルシを見たい」とドッジが言い出したのである。 コクーンでファルシを見るといえば、エネルギー·プラントのファルシ=クジャタだった。調べてみると、ちょうどいい具合に見学ツアーの空きが見つかった。『親子で行く エウリーデとボーダム』という添乗員なしのフリーツアーで、ボーダムまでの飛空艇の便と宿泊先のホテルは指定されているが、他は自由行動である。子供料金も大幅に割り引きされていたし、何より子連れには気楽でいい。 そんなわけで、今はエウリーデ駅からエネルギー·プラントに向かう途中だった。観光客の多さもさることながら、それを当て込んだ土産物屋の数もまた多い。どこかでドッジの足が止まるだろうとは思っていた。動物の形をした風船を欲しがるか、色とりどりの飴菓子に目を奪われるか……。「やだ! 今! 今!」 ドッジがさらに強く手を引っ張った。子供はみんな、こんなふうに我が儘を言うものだ。サッズ自身にも覚えがある。そして、それがかなえられたときのうれしさといったら。 ただ、子供の頃には知らなかったこともある。それは、我が儘をかなえてやる大人の側もうれしくてたまらない、ということだ。「しゃあねえなあ。今回だけだぞ」 そう言いながらも、口許が緩んでしまう。「で、何が欲しいって?」 ペットショップの前だった。ここエウリーデだけでなく、あちこちに支店を出している大手のショップである。「黄色いの!」「どれどれ」 店先には大小さまざまなケージが並んでいた。大手だけあって、犬や猫というありふれた小動物だけでなく、危険のないように遺伝子操作された観賞用の魔物も取り扱っている店である「黄色いの、黄色いの……っと」 サッズの視線がぴたりと止まった。「お、おい。まさか、あれか?」 大きなケージの中に黄色いプリンが、でんと居座っている。覗き込むと、プリンは威嚇するかのように身体を反らせて伸び上がった。「坊や。黄色いのって言やぁ、こいつだよな?」 店の中から顔を覗かせた店員がドッジに笑いかけると、両の手のひらを何度か振ってみせた「うん、そうだよ」 大きくうなずいたドッジは、店員と同じ仕種をした。鳥の真似……だろうか?「子供たちの間で『黄色いの』って言ったら、これしかありませんや、お父さん」 店員の指さす先には「ひなチョコボ入荷しました」という貼り紙があった。「なんだ、チョコボか」 観賞用プリンをねだられたと思ったときには焦ったが、ひなチョコボならば問題はない。「じゃあ、ひとつ……黄色いのを」 その言葉を聞くなり、ドッジの顔がぱっと輝いた。ドッジはチョコボが大好きだった。お気に入りの絵本もチョコボの話だし、チョコボ柄のタオルはすり切れてぼろぼろになるまで使ったほどだ。 「それじゃ、店内へどうぞ」 店員に促されて、ドッジの手を引こうとしたときだった。「ここで待ってる」 ドッジは両手を背中に回して得意げに言った。「父ちゃんが用事を済ませるまで一人で待つ」ことができるようになってからというもの、ドッジはそれが自慢なのだった。「わかった。いいか、ここを動くんじゃねえぞ。絶対だぞ?」 うん、とうなずいたドッジの顔にいたずらっぽい表情が浮かんでいる。もちろんそれに気づいているから、サッズもわざと「動くなよ」と繰り返しながら、後ずさった。 これは「一人で待つ」だけでは物足りなくなったドッジが、最近になって考えついた遊びなのである。サッズが店の中に入るなり、ドッジは近くの物陰に身を隠す。そして、サッズが「おーい、どこだ?」と捜し出してくれるのをわくわくしながら待つ、という案配だった。 店の中へ入ると、ちょうど店員がケージを開けようとしたところだった。と、その中の一羽がするりとケージの扉をすり抜け、サッズめがけて飛び出してくる。「おやおや。お父さん、気に入られたようだね」 ひなチョコボがサッズの周囲を飛び回っているのを見て、店員は笑いながらケージの扉を閉めた。「気に入られた……ねぇ。どうだか」 首を捻ると、空中のひなチョコボと目が合った。ひなチョコボもまた、小さく首を傾げている意外と可愛いもんだな、と思ったときだった。小さなふたつの目がきらりと光った気がした。次の瞬間、ひなチョコボはまっしぐらにサッズのほうへと向かってきた。「いてっ」 ひなチョコボの着地先は、サッズの頭の天辺だった。「こら! 爪立てんじゃねえ!」 サッズの抗議に、ひなチョコボは高く一声鳴いて答えた。それが「わかった」なのか、「知るか!」なのかは不明だが、すこぶる機嫌良さそうな鳴き声だった。 支払いを終えると、ひなチョコボを頭に乗せたまま、サッズは大急ぎで外に出た。早くドッジにひなチョコボを見せてやりたかった。 ところが、というべきか、案の定というべきか、店の前にドッジの姿はなかった。まあ、いつものことである。「おーい、ドッジ! かくれんぼか?」 大げさな仕種で辺りを見回してみる。どうせ、その辺の物陰に潜んでいるに違いないのだ。こうやって捜し回っているふりをしているうちに、すぐ近くから笑い声が聞こえてくるだろう。小さな子供のかくれんぼは、見つからないようにするのが目的ではなくて、見つけられて抱き上げてもらうのが目的なのだから。「こりゃあ、父ちゃんの負けかなー。参ったなー」 芝居がかった仕種で首を傾げてみせても、ドッジの笑い声は聞こえてこなかった。 「ドッジ……?」 辺りを見回す。ベンチの向こう側、屋台の陰、植え込みのある花壇。どこにもドッジの姿はない。そして、そのすぐそばにはプラントの建物。「先に入っちまったのか?」 サッズは足早にプラント入り口へと向かう。子供は飽きずに何度も同じことを繰り返したがるものだが、ある日突然、新しいことを始めるのもまた子供の特徴である。そうやって成長していくのだ。 これからしばらく一人で待たせるのは禁止だな、とサッズは思った。たぶん、ドッジは「待っている間、一人で別の場所へ行ってみる」ということを覚えたのだろう。 プラントの入り口で、念のためにもう一度、広場を振り返ってみる。同じ年頃の子供はいくらでもいたが、ドッジの姿はない。やはりドッジは一人でプラント内に入ったのだ。何やら胸騒ぎがした。 そのときだった。ひどく重たいものが落ちるような地響きとともに、辺り一帯が揺れた。遠くで何かが噴き上がるような音がする。広場で遊ぶ子供たちの声が、一瞬にして泣き叫ぶ声に変わった。「ドッジ!」 サッズはエントランスに飛び込んだ。何かが起きた。間違いない。「ドッジ! どこだ!? どこにいる!?」 非常事態を告げるサイレンが鳴り響く。そのやかましい音すらかき消さんばかりの悲鳴と怒号。観光客の誰もが我先にと出口めがけて駆け出していた。 早くドッジを捜しに行きたいのに、人の波に押し戻されてまともに動けない。向かってくる人々をかき分けるようにして、サッズは強引に通路を進んだ。途中、何度か舌打ちをされたり、あからさまに文句を言われたりしたが、それどころではない。 そのころになって、ようやく「押し合わないで、落ち着いて避難してください」というスタッフの声が聞こえた。対応が遅いのは、彼らもあわてていたからだろう。 地響きに似た音はまだ続いていた。時折、不規則な揺れも感じる。白い煙が立ちこめていて、奥がどうなっているのか、さっぱりわからない。火災なのか、爆発事故なのか。「ドッジ! どこだ!?」 白い煙を思い切り吸い込んでしまったが、むせ返ることはなかった。どうやら、これは煙ではなくて、霧や水蒸気の類らしい。いったい何が起きたというのだろう……? 通路の奥には、ほとんど人の姿はなかった。もう誰もが逃げ出してしまったのだろう。もしかしたら、ドッジも入れ違いに外に避難しているかもしれない。いや、違う。ドッジはまだこの中だ。限りなく確信に近い予感があった。「ドッジ! 父ちゃんだぞ! 返事をしろ!」 ファルシ=クジャタはもう目の前だった。サッズはひたすら声を張り上げる。 何かが噴出する音が至るところから聞こえた。白い霧はますます濃さを増している。両腕を 振り回すようにして、視界を確保しながら進む。 その最悪な視界の片隅に、見慣れた色の服があった。「ドッジ!」 休憩用の長椅子に横たわっていたのは、紛れもなくドッジだった。駆け寄って抱き起こす。ドッジはうっすらと目を開けた。「父ちゃん……?」「もう大丈夫だ。怪我ないか? 痛いとこはねえか?」 安心させるように声をかけながら、ドッジの腕や足を改める。「ん? なんだこりゃあ」 ドッジの手の甲に見慣れない模様があった。シールでも貼ってあるのかと思ったが、違った。若い連中がよくやっているボディペイントの類だろうか。それにしても、いつの間に…… いや、こんなものは後回しでいい。それよりも早く安全な場所へ避難しなければ。そう思ってドッジを抱き上げたときだった。背後からいくつもの足音が近づいてきた。「どうした! 大丈夫か!」 警備兵だった。彼らなら、すぐにでも安全な場所へ誘導してくれるだろう。「兵隊さん、子供が倒れて……」「怪我は? 頭は打ってないか?」「それが、よくわからないんですよ。途中ではぐれちまって、それで」  皆まで説明する必要はなかった。緊急時のマニュアルでもあるのだろう、彼らは手早く折り畳み式の担架を広げ、ドッジを乗せた。女性兵士が傍らに付き添い、ドッジの顔をのぞき込む「怖がらなくていいからね。大丈夫よ」 話しかけながら、顔色や意識の状態をチェックしていたのだろう。彼女はすぐに傍らの兵士に向かってうなずいた。「救護室へ運びます。お父さんもこちらへ」 助かった。もう安心だ。サッズはうなずき、彼らの後に従った。 救護室には、逃げる際に怪我をしたり、気分が悪くなったりした観光客でごった返していた 担架に乗せられている間こそ、緊張していたのか、ドッジはおとなしくしていた。が、簡易ベッドに寝かされると、もう我慢しきれなくなったらしい。ドッジはもぞもぞと足を動かし始め、サッズを見上げた。「父ちゃん、あのね」「静かにな」 サッズはドッジの肩に手を置いて、やんわりと首を振った。「ドクターに見てもらうまで、おとなしくしてねえとな」「うん……」 ドッジがしぶしぶうなずいたときだった。重傷者でも出たのか、にわかに廊下が騒がしくなった。救護室のドアが開き、数人の兵士が現れた。地元の警備軍ではないとすぐにわかったのは、服装のせいではなく、独特の空気のせいだった。「緊急事態が発生しました。現時刻をもって、プラント内及びエウリーデ近郊はPSICOMの管理下に置かれます。速やかに我々の指示に従ってください」 兵士たちの先頭に立っているのは、まだ若い女性だった。整った顔立ちに理知的な物言いは、才色兼備という言葉が服を着ているかのようである。ただ、眼鏡を掛けているせいだろうか、些か視線がきつい。「エウリーデ駅及び飛空艇発着場は一時的に使用を見合わせています。待機していただく仮設テントをプラント前広場に用意していますので、ドクターの診察が終わった方はそちらへ移動してください。診察がまだの方と医療スタッフは、救護用のテントへ。以後、この施設内への立ち入りは一切禁止します」 救護室内がざわついたのは、一瞬だった。すぐに彼女の指示で、兵士たちが動いた。診察を終えた者とそうでない者を分けて列を作り、外へと先導していく。さすがはPSICOMというべきか、その手際は見事なものだった。 サッズもドッジと共に救護テントに向かう列の最後尾につこうとした。と、その肩にそっと手を置く者がいた。「ファルシの前で倒れていたお子さんは、そちらですね?」 兵士たちを従えていた眼鏡の女性だった。彼女はサッズに近づくと、声を潜めた。 「PSICOMのジル·ナバートと申します。息子さんのことで急ぎ相談がございますので、ご同行願います」「相談?」 お静かに、とナバートは意味ありげに人差し指を唇に当てた。「おっしゃりたいことはわかりますわ。でも、ひとまず私どもの指示に従っていただけませんか。詳細は道々、お話いたします。ここは……人の目が多すぎますので」 含みのある言い方だった。いったい何が起きているのか。ドッジがどうしたというのか。ぶつけたい疑問は山のようにあったが、相手はPSICOMの、それも相当な地位にあると推測される人物である。サッズはただうなずくしかなかった。 CHAPTER 02  ――あの後、重傷者を装って運び出されて、PSICOMの飛空艇に乗せられて……。なんでも、たまたまPSICOMの偉いさんが来てたんだとか。抜き打ちの視察だとよ。いきなり来られるほうはたまったもんじゃねえよな。あのナバートっていう別嬪さんは、「幸運な偶然でした」なんて言ってたけどよ。 PSICOMって言やぁ、「下界の脅威」ってやつが専門だ。なんで、そのPSICOMがプラントに居合わせたのが幸運なんだって、あのときは思ったんだよな。 いや、そんなことはどうでも良かったんだ。ドッジさえ無事なら。なのに、ろくな説明もなしに、エデンに連れて行かれて、軍の医療施設に入れられちまった。詳細は道々、なんて言ってたのによ、飛空艇の中にまで医療スタッフが待機してて、それどころじゃなかった。 けど、「息子さんの安全を最優先にするためですから」なんて台詞を出されたんじゃ、こっちは何も言えやしねえ。 父ちゃん、おろおろしっぱなしさ。おかげで、おまえとドッジを引き合わせるのも忘れてたな。まあ、おまえもそれどころじゃなかったよな。父ちゃんの髪の毛ん中でちぢこまって、ぴくりとも動かなかっただろ? おまえが飛び出してきたのは、夜になって、ベッドに入ろうってときだったっけか。ドッジとは別の部屋をあてがわれて、一人きりだったから、もう驚いたのなんのって。 ああ、もちろん、眠れやしなかったさ。気になってたんだよ。ナバート中佐がちらっと言ってた「ルシの烙印」って言葉が、な―― 翌日になっても、サッズの置かれた状況は全く好転しなかった。医療施設のスタッフを片っ端から捕まえて尋ねてみても、「検査中」以上の情報を引き出すことはできず、せいぜい「ナバート中佐から後ほど説明があります」という言葉が付け足される程度である。 そのナバート中佐の所在を訊けば、わからないという答えが返ってくるばかり。何か隠しているのかとも疑ってみたが、ここのスタッフたちは本当に何も知らされていないらしい。ドッジの検査にしても、実際に担当しているのは彼らではなく、PSICOM上層部が直々に指名した少数の専門家だという。 うろたえるサッズに同情したのか、医療スタッフたちもナバートを捕まえようと試みてくれてはいた。しかし、中佐ともなれば行動予定が伏せられていることも多く、連絡すらままならないらしい。「ナバート中佐は非常に優秀で、聖府の信頼も厚い方ですから。私たちがどうこう言える相手じゃないんです」 あちこちに問い合わせを入れてくれた若い女性はそう言って肩をすくめた。彼女の話によれば、ナバートは士官学校を主席で卒業した後、異例の速さで中佐に昇進し、今なお出世街道を驀進中なのだという。 そういった人物が動いている以上、エウリーデでの一件は単なる事故ではない。自分たち親子は何か大変な事態に巻き込まれている。それだけは間違いなかった。「できるだけ早い段階で説明が受けられるよう、何とか連絡を取ってみますから。ご心配でしょうけど、もう少し待っていただけませんか」「わかりました。できるだけ早く……お願いします」 サッズは礼を言うと、部屋に戻った。そこは病室ではなく、入院患者の家族が泊まり込むための部屋らしく、ホテル並みの設備が整っている。ショップや各種機関にアクセスできる端末まで用意されていた。入院生活も長期になれば予想外の品が入り用になるものだし、書類の申請が必要になるケースもままある。 端末の前に陣取った途端、アフロヘアの中からひなチョコボが飛び出した。今までは周囲を警戒して出てこなかったのだろう。「おまえは好きに遊んでな。父ちゃんは情報収集だ」 端末を操作して、図書館の資料を検索した。ナバートが漏らした「ルシの烙印」という言葉を調べるためである。 ルシ、という言葉を知らないわけではない。むしろ子供でも知っている言葉だ。昔話やおとぎ話の類で聞かされるから、コクーンに生まれ育った者なら幾度となく耳にしている。 ただ、そのおとぎ話と現実がどうつながるというのか。エウリーデの事故とドッジに何らかの関係があるとは、到底考えられない。 全く違う単語を聞き間違えた可能性もある。だとすれば、何をどう間違えたのだろう。本当のところ、ナバートは何を言おうとしていたのか。それが知りたかった。 検索結果が表示される。どうせ児童書のタイトルばかりが引っ掛かってくるに違いないと思っていたが、予想以上に歴史書が多い。古文書の写しだの、資料館の映像案内だのもある。 どれをどう絞り込んで行くべきか。改めて画面を見直したときだった。ひなチョコボが操作用のパネルに着地し、いきなり画面が切り替わる。「こら。端末に触るんじゃねえ。遊ぶんなら、あっち行ってな」 急いでキャンセルボタンを押そうとした瞬間、古文書の写しが画面いっぱいに拡大された。石版に刻まれた古い文字と紋様である。「おいおい。何の冗談だ?」 見覚えのある紋様だった。見覚えがあるどころか、ほんの半日前に見たばかりである。ドッジの手の甲に浮かび上がっていた模様と寸分違わない。 端末を操作し、説明文を表示させる。読み進むにつれて、血の気が引いていくのが自分でもわかった。 ナバートは「ルシの烙印」と言った。聞き違いなどではなかったのだ。 CHAPTER 03  ――目の前が真っ暗になるっていう言い方があるけどよ、あれって本当だったんだな。真っ暗っていうか、何も目に入ってきやしねえ。 端末をいじくって、大学の研究機関だの民間のシンクタンクだのに片っ端からアクセスしたのは覚えてる。けどよ、そこに何が書いてあったのか、さっぱり思い出せねえんだ。いや、読んだよ。読んだ覚えはある。確かに「聖府のルシ」に関する文章をいくつも読んだ。 けど、どれひとつとして、欲しい情報じゃなかった。聞きたい言葉じゃなかった。 なあ、父ちゃんが聞きたかった言葉、わかるか? たった一言だけだ。息子さんは大丈夫、その一言だけで十分だった。 ナバート中佐なら、それを言ってくれるんじゃねえかって……なんでそんなふうに考えたんだか。まあ、必死だったんだな。出てくる情報出てくる情報、どれも信じられなくてよ。士官学校を主席で卒業した軍人さんなら、そんなもん全部ひっくり返してくれるって、命綱みてえに思ってた。 なのによ、その命綱のナバート中佐殿に会えたのは、その翌々日、事件から三日も経ってからだったんだ――「三日間も放置する形になってしまいましたこと、まずはお詫びいたしますわ」 ナバートは深々と頭を下げると、「さぞご心配だったでしょう」と沈痛な表情で言った。医療施設の一室である。壁一面にモニターがあり、そこにはパズルのようなもので遊びながら質問をされているドッジの姿が映し出されていた。これも検査の一環らしい。 面会はまだ許可されなかった。せめて元気な姿を見るだけでもと、ナバートが用意したのがこのモニタールームだったのである。「詫びなんざ、どうでもいいんです。それよりドッジを、息子を……」 早く家に連れて帰りたい、という言葉をサッズは呑み込んだ。モニターに映し出されたドッジは、楽しげに手を叩いている。その手の甲には、あの模様があった。 まだ言えない。家に連れて帰るまでに、これを何とかしなければならない……。「もうお気づきかもしれませんが」 ナバートは言いにくそうに言葉を切った。が、小さく息を吸い込むと、思い直したように口を開いた。「息子さんはルシに選ばれました。ファルシ=クジャタによって」 この三日間というもの、時間の許す限り端末に貼りついていた。ルシについて調べれば調べるほど、絶望は深くなった。ナバートだけが最後の希望だったのだ。何か勘違いなさっていませんか、息子さんがルシだなんてそんなはずないでしょう、と笑い飛ばしてくれるのではないかと。 失意がにわかに激情へと転じた。サッズは思わず声を荒らげる。「何の冗談ですか! ルシなんて昔話だけの……」「お気持ちはお察しします」 ナバートは悲しげに目を伏せた。それを見た瞬間、サッズは言葉を失った。あんたに何がわかると、彼女に食ってかかればいいのか。或いは、安っぽい同情はやめろと突っぱねればいいのか。いや、何をどう言っても、事態は変わらないし、胸の中で荒れ狂う感情を鎮められるわけでもない。 わからない。何もかも。サッズはただ両の拳を握りしめる。「我々も驚いているんです」 ナバートが遠慮がちに続けた。「記録の上では、聖府のファルシは黙示戦争以来、数百年以上ルシを選んでいません」「じゃあ、なんでドッジが!」 なぜ、ドッジなのか。あの日、あの場所には大勢の子供がいた。ドッジと同じ年恰好の子供だっていた。いや、子供である必要がどこにある? 大人だっていたのだ。彼らだって構わなかったはずだ。なのになぜ、よりにもよってドッジだったのか?「正直なところ、それは我々にもわかりません。最善と判断したからこそ、ファルシはドッジ君を選んだのだとしか」「まだ六歳の子供をですか? 馬鹿げてる」「カッツロイさん……」 ナバートは何か言いたげに口を開きかけたが、無言のまま目を逸らした。何かあるのだ、とサッズは直感した。彼女はまだ何かを隠している。「PSICOMは……聖府は、ドッジをどうしようっていうんです?」 飛空艇の中でナバートは、ドッジの身の安全云々と言ったが、民間人の子供一人の身を軍がただ案じてくれるとは思えない。「くれぐれもご内密に願いますが」 当たり、だ。意を決したように口を開くナバートを、サッズはじっと見つめる。「コクーンは今、重大な危機に直面しています。我々がずっと警戒していた、下界からの侵略がついに始まったんです」「は?」 いきなり何を言い出すのか。下界からの侵略など、話が大きすぎてどう反応していいやら、さっぱりわからない。「聖府は公表を控えていますが、プラントの異変は事故ではありません。下界の手先による破壊工作です」 絶え間なく噴出する白い霧。地響きにも似た揺れ。聖府の発表は「事故」だった。あれが破壊工作だったというのか。「被害が最小限に留まったのは、ドッジ君のおかげです。ファルシによって選ばれ、ルシとなったためなんです」「まさか。たかが六歳の子供に何ができたっていうんです?」  あり得ない。六歳の子供に妨害されるような「下界の手先」など、そもそも脅威ですらないだろう。しかし、ナバートはきっぱりと「事実です」と言い切った。「ただ、下界の手先はいまだ逃亡中で、いつまたテロを起こすかわかりません。ですから、どうかご協力をお願いしたいのです」「協力って……」 これまた悪い冗談としか思えない。いったい何を協力しろというのか。「ドッジ君は選ばれた存在です。コクーンを救う鍵なんです。力は未知数ですが、聖府はドッジ君を全力でバックアップし、下界の侵略に立ち向かいます。ですからカッツロイさん、どうかお力をお貸しいただけないでしょうか」「急にそんなことを言われても。こっちは何が何だか」 もっと具体的な説明が聞きたかった。下界の侵略だのコクーンを救うだの、そんな捉えどころのない話ではなく、いつドッジを家に連れて帰れるのか、これからドッジがどうなるのか……普通の生活に戻れる見込みはあるのか。 しかし、サッズがそれを口にするよりも、ナバートのほうが早かった。「ええ、ええ。ですよね。わかります」 ナバートは何度もうなずいてみせた。軍人というよりは、小さな子供を相手にする教師のような態度だった。「何も特別なことをやれと申し上げているわけじゃないんです。ただ見守っていただければ」  もしかしたら、自分は今、駄々をこねる子供そっくりの顔をしているのかもしれない、とサッズは思う。「ドッジ君に与えられた力や使命は、まだ何もわかっていません。一刻も早くそれを解明すべく、我々は検査を重ねているんです。面会時間もままならなくて、お父様にはさぞご心配なことと思いますが、そこをどうか……」 使命。そうだった。それを果たさなければ、ルシはシ骸になってしまうという。ナバートの言うことは正しい。今はまず、「使命」を探し出すことが最優先だ。わかっている。頭ではわかっているのだが……。「明日には必ず面会できるよう、計らいます。そのためにも、今日はできるだけ多くの検査を行いたいのです。ですから、どうか今日はこのままお引き取りを」 そう懇願されると、サッズはもう何も言えなかった。 CHAPTER 04  ――明日には必ず、って言葉にとりあえず嘘はなかったな。翌日の夕方になっちまったけど、やっとドッジとの面会が許可されたんだ。 ただ、おまえは部屋で留守番だったんだよな。ドッジの注意が全部、おまえに行っちまったら、使命がわかんなくなるんじゃねえかってさ。 そう怒るなって。父ちゃんだってな、早くおまえとドッジを会わせてやりたかったんだ。けど、中佐の言い分にも一理あった。子供ってのは何かに気が行くと、他のことなんて、すぱーんと忘れちまうからな。 あのときは、使命のしの字もわかっちゃいなかったからよ。父ちゃん、焦ってたんだ。いや、あのときだけじゃねえ。ずっと……焦ってた。 たった六歳のガキに何がわかる? わかったところで何ができる? そいつが頭にこびりついて、離れなかったんだ―― 呼び出されたのは、昨日とは違う部屋だった。壁にはモニターではなく、大きなガラスがはめ込まれていて、隣の部屋の様子がよく見えるようになっていた。ただ、向こう側からこちらの様子は見えないらしい。 でなければ、サッズの姿を見つけるなり、ドッジが駆け寄ってこないはずがなかった。おそらく、ここは被験者の様子を観察するための部屋に違いない。 「まずお会いになりますか? それとも、先に説明を?」「説明をお願いします」 早くドッジに会いたいのは山々だったが、検査結果も気になる。気がかりなことを胸に抱えたままで会えば、ドッジもまた不安になるかもしれない。ならば、説明を先にしてもらったほうがいい。 隣の部屋では、ドッジがPSICOMの将校に遊んでもらっていた。年の頃は三十代前半だろうか。冷たい銀髪と額の傷は子供に怖がられそうなものだが、ドッジはよく懐いているようだ。 根は子供好きな男なのだろう。眉間に皺を寄せてはいるが、遊んでやる様子を見ればわかる。或いは、子供の相手であっても決して手抜きをしない生真面目な性格なのか。「ドッジ君はいい子ですね。人見知りもしないし、聞き分けも良いし」 ガラスの向こうに目をやって、ナバートが微笑んだ。「早くに母親を亡くしてますんでね、ベビーシッターやら託児所やらで、大人に遊んでもらうことに慣れてるんですよ。それが不憫で、長距離航路から近距離の定期航路に転属を願い出ましてね。やっと父親らしいことをしてやれるようになりました」 三年前、妻が病死するまでは仕事仕事だった。子供の頃からの夢だったパイロットという職に就き、花形とされる長距離航路の機長を任され、毎日が充実していた。 だから、子供のためという理由で勤務時間の短い定期航路のパイロットとなったとき、周囲の誰もが驚いた。サッズ自身、意外に思ったものだ。自分がこれほどあっさりと、エリートコースから離脱してしまったことに。 だが、その選択は間違っていなかった。子供と過ごす時間がどれほど楽しく、心温まるものであるか、初めて知った。 母親を亡くしたドッジを寂しがらせたくない、この三年間、そう思って仕事と子育てに勤しんできた。だが、実際には、自分のほうこそがドッジに助けられてきたのだと思う。あの笑顔が、あの笑い声が、どれだけ心の支えになってくれたことか。「それで、ドッジの検査のほうは? ルシってのは治せないんですか?」 あの笑顔を失いたくなかった。しかし、ナバートはすまなそうに目を伏せた。「人間の技術では……。残念ですが」 そんな、と答える自分の声が遠い。使命を果たせなければシ骸という化け物になり、使命を果たせば物言わぬクリスタルにされてしまう。古文書の類には「使命を果たしたルシはクリスタルとなって永遠を手に入れる」とあるが、そんなものは当たり前の人間から見れば死も同然だ。 サッズはガラスの向こうに目をやった。ドッジは将校におんぶされて、手を叩いて笑っている。今までと何ら変わりのない笑顔なのに、ドッジは「ルシ」なのだ。いたずら書きのような模様がたったひとつあるだけで、二度と普通の生活には戻れない……。「じゃあ、烙印を切り取れば? 皮膚移植の技術を応用すれば、烙印だけを取り除くことができるんじゃ?」 最悪の場合、手首から先を切断することになったとしても、わけのわからない化け物やクリスタルになるよりはいい。手が不自由でも、生きてさえいれば幸せになれる。「いけません。そんなことをして、ドッジ君にもしものことがあったら。ルシについてはわからないことのほうが多い……いえ、ほとんど何もわからないに等しいんですよ」「でも……」「取り返しのつかないことになっては、悔やんでも悔やみきれないでしょう? 今は、ドッジ君の力や使命を探すことです。烙印を切り取るといった方法は、最終手段とお考えください。焦ってはいけません」 焦るなと言われても、どれだけの時間が残されているかすらわからないのだ。使命を果たすまでの期限が明日か明後日か、それとも一年も二年も先の話なのか……。「ですが、ひとつだけ進展が」「進展? なんですか、それは!」 まだ仮説に過ぎないのですが、と前置きして、ナバートは説明を始めた。「ドッジ君は下界の存在を感じる力があるようなんです。エウリーデを襲った下界のルシや、そのルシを操るファルシの居場所を突き止められるかもしれません」 ふくらみかけた期待が瞬時に失望へと変わった。下界の連中がどこにいるかを突き止めたところで、何になるというのだろう? そんなもの、何の解決にもなりはしない。  これがPSICOMの人間と自分の違いなのだと気づいた。下界の脅威からコクーンを守ることを任務としている彼らにとって、その存在を感知できる能力は確かに「進展」だろう。結局のところ、彼らはファルシと同じく、ドッジを道具とみなしているのだ。 PSICOMに、聖府に、自分はいったい何を期待しようとしていたのか。 ナバートにも、PSICOMの誰にも頼れない。ドッジのために何かしてやれるのは、父親である自分以外にいないのだ。「ドッジに……息子に会わせてください」「ええ。こちらへどうぞ」 ナバートはにっこりと笑って立ち上がった。自分自身の心のありようが変わったせいだろうか、その笑顔の裏に何か冷ややかなものが潜んでいる気がした。「お父様がいらっしゃると聞いて、ドッジ君も楽しみにしていたんですよ」 ナバートは、父親である自分に何をさせようとしているのだろう? もう最初の頃のように彼女を信頼できなかった。「父ちゃん!」 隣室のドアを開けるなり、ドッジが駆け寄ってくる。「ドッジ!」 転がるようにして飛び込んできた小さな身体を抱き上げる。いつもの重さ、だった。腕の中にそれを感じた瞬間、ドッジの不在が自分にとってどれだけ苦痛であったかを悟った。この重さとこの温もりを失いたくない、何が何でも守りたいと思った。「あのね、父ちゃん」 目尻の涙をすばやく拭うと、サッズはドッジを下に下ろした。「なんだ?」 跪き、ドッジの顔を覗き込む。「おっきな花火、見たい」「花火?」「うん。おっきいの。お空にいっぱい……」 こーんなの、とドッジは両手で大きく円を描きながら飛び上がった。「急に言われても、なぁ。それに、まだ検査が……」「やだ! 花火! おっきな花火!」 ドッジの望むことは何でも叶えてやりたいとは思う。だが、それをPSICOMが許すとは思えなかった。下界の存在を感じる力があるらしいことがわかっただけで、肝心の使命についてはまだ手がかりすらないのだ。「じゃあ、全部の検査が終わってからな」「だめ! 花火終わっちゃうよ」 いつになく、ドッジは強情だった。いつもなら、最初は我が儘を言っても、聞き届けられそうにないと思えば諦める。もともと聞き分けは良いほうなのだ。だからこそ、サッズも思う存分、甘やかしてやれるのである。「けど、今は検査が……」 サッズはちらりとナバートに目をやった。ドッジは決して物がわからない子供ではない。ナバートが検査の必要性をきちんと説明すれば、しぶしぶであっても納得するだろうと思ったのだ。が、ナバートの反応は予想外のものだった。「終わっちゃうってことは、もしかして花火大会のことを言ってるの?」 そういえば、明後日はボーダムの花火大会だった。ファルシ見学ツアーでボーダムを通った際に、花火大会の案内でも目にしたのだろうか。「どうして見に行きたいの? 花火が好きだから?」 ドッジは答えを捜すように首を傾げていたが、不意に固く唇を引き結んだ。「どうした、ドッジ」「……いる」 小さくつぶやくと、ドッジはサッズにしがみついた。「何がいるって?」 サッズの肩口に鼻先を押しつけたまま、ドッジは何度も首を左右に振った。「わかったわ。ドッジ君、みんなで花火大会に行きましょう」 ナバートはそう言って、ドッジの背中を撫でた。本気だろうか。「中佐、子供の我が儘には……」 「いいえ。確かめてみる価値はあります」 眼鏡を指先で押し上げると、ナバートは傍らの将校にうなずいてみせた。「先ほどのドッジ君の言動は、明らかに今までにないものでした。下界の存在を感知する力が働いたのだとすれば、花火大会が行われるボーダムに何かがあるはずです」 家族に対する態度と他人に対する態度が違うのは当然だ。それを特別視されてもと思ったが、サッズは黙っていた。一刻も早く使命を見つけ出さなければならないが、ドッジが望むなら花火大会に連れて行ってやりたかった。こんな小さな子供が意味もわからず検査漬けにされているのが、不憫でならなかったのである。